月別アーカイブ: 2008年3月

ヒメオドリコソウ

春の草が次々と花を咲かせるこのごろです。私たちの住宅地は周囲を田んぼに囲まれ、田の土手には小さな花が顔を出しています。そんな花を撮った一枚です。
ヒメオドリコソウ
面白い姿だなと思いつつ撮ったのですが、パソコンで拡大してみて初めて葉の重なりの間から小さな花が顔を出していることを知りました。肉眼では見過ごしている花でした。インターネット「野の花図鑑」で検索して花の名を知りました。その名は、「ヒメオドリコソウ」です。
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団らん

卒業式が終わり、下宿を退き払うのもなかなか大変な作業でした。でもおかげで3月末のこの時期、久しぶりに家族全員が勢揃い(といっても4人だけですが)しました。親子共同作業で餃子を手巻きして焼き、卒業祝いを盛大(?)に、久々の一家団欒です。子どもがこの年齢になると、こうやって家族がそろうのが貴重な時間です。
餃子

正月以来となる長男は、「遅くなったけれど」と私たちにプレゼントをくれました。これからも夫婦仲良くごはんを食べることにしましょう。(笑)
誕生祝い

入寮する長男は○○○○引っ越しパックで荷物を送り、月末にはいよいよ本当の巣立ちです。一方、二男はただいま就活の真っ最中。昨日、スーツを着て出かけていきました。

卒業式(その2)

さて、このあとは私たちの後輩ともいえる合唱団による学生歌と送別の歌でした。
卒業式2
しかし、先ほど書きました大学改革でどうやら学生歌も変わってしまったようです。送別の歌も当時は毎年必ず歌う一曲があったのですが、それも変わってしまいました。当時はこの卒業式で唱うためにはピアノを運ばなければなりませんでした(当時の学生歌もピアノ伴奏付き)。大学の事務局でトラックを手配してくれ、男声団員が普段の練習に使っている2階の講義室の常置してあるピアノを階段を下ろしてトラックに(これが大変な作業)、ピアノと一緒に荷台に乗り込んで移動し、今度はトラックから体育館のフロアーにと運ぶのです。もちろん終了後はまたピアノを元に戻すすのですが、こうして私たちが唱ったの送別の歌は「ここが美しいそれは」という曲、

      ここが美しい     それはここがここだから
古い、そして美しい  だからすぐに
古い、だから美しいと 考えるか、あなた

こんな歌詞でしたね。作詞者も作曲者も覚えていないのですが、ア・カペラで、ユニゾンが大変多い曲でそれを当時の聴き合う耳で歌ったので非常に印象深いのです。ユニゾンの、弦をビンと張ったような感覚が懐かしいのです。

今回聞いた曲はいずれも私たちの知らないピアノ伴奏曲、伝統が変わってしまいましたね。

卒業式

息子の卒業式に行ってきました。私の母校でもあります。久しぶりに見た卒業式の最も大きな違いは会場にあります。

今年の会場は県民文化ホールでした。しかし私たちの頃は学内にあった、当時よく目にしたかまぼこ状の屋根の体育館が会場でしたね。体育館のフロアーの前方に演台をしつらえて、そこでの式でした。しかし式の詳細についてはほとんど覚えていません。学長の長い式辞があり、そこで話される内容は会場入り口で渡されるのでした。今の式では送辞も答辞もあるのですが、当時の式でそういうものがあったのかどうか全く記憶がありません。

卒業式1
話を今に戻します。型どおりの式がすすんで最後には「記念演奏」・「学生歌」・「送別の歌」と次第が並んでいました。この大学は数年前の大学改革で同じ盆地内にある医科大学と統合しましたが、以前のままの名称を引き継いでいます。「記念演奏」は医学部オーケストラによるものでした。ホールのステージの手前、客席のフロアーの最前列にスペースを確保して客席に向かっていた椅子に続々と団員が入ってきて、やがて学生指揮者のもと、シベリウスの「フィンランディア」が始まりました。名曲ですよね、私も好きな曲です。演奏には未熟なところもあるのでしょうが、ホールにいた人みんながその音楽の世界に引き込まれジンとしてしまいました。演奏が終わると最前列にいた卒業生が数人、大きい声で「ブラボー!」と言って立ち上がり拍手を始めました。多分このオーケストラに所属していた卒業生なのでしょうね、先輩と後輩のほほえましい光景でした。演奏が終わって司会者が「次は学生歌:○○です」といったのですが、その声は今聴いた演奏に上気してうわずった声になってしまい、何を言っているかよくわかりませんでした。司会者までもが感傷的になってしまったのが会場のみんなにわかることとなり、失笑でどよめいたのです。

ふきのとう

春の味覚「ふきのとう」が顔を出しました。枯れ葉の中にぽつんぽつんと若い緑が顔をのぞかせています。周りは殺風景ですがその中の緑はきれいですね。
ふきのとう

もちろんふきのとうは春の味覚の代表格、山菜の王者「タラの芽」よりもむしろ香り高く野性的で私は大好きです。と言うわけで今日の収穫はごらんの通り。
ふきのとう2
早速、天ぷらとふき味噌に姿を変え、私たちのおなかに収まりました。

福寿草

実家の庭に福寿草が咲きました。昨年いただいた株を石垣を背中にした場所に植えたところ暖かくてちょうど良かったんでしょうね、早速今年から咲き始めました。
福寿草2
私の育った部落は福寿草が自生するという珍しいところなのです。山間の過疎の部落で田畑の多くは荒れてしまい、かつては田畑の土手やちょっとした空き地などに見ることができたのですが、今は「どこにあるのだろう?」と思うほど荒廃してしまいました。それでも探せば自生しているところもきっと見つかるのだろうと思います。

私が在籍していた頃、小学校では校章が制定されました。福寿草をデザインした校章で、白布に刺繍して胸に縫いつけていました。この校章の制定に際して、福寿草が自生する土地が珍しいことを先生から教えられたのです。そして、100世帯ほどの部落の中にあったこの小学校が閉校になったのはもう何十年も前のことです。このところ、県内のいくつかの小中学校が閉校を迎えるというニュースが流れています。私の記憶とも重なって複雑な思いがしますね。
福寿草
福寿草、今の住まいの庭にも植えてみようかな。

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日本の農はどこへ向かうのか

アメリカに代表されるような広大な土地に単一作物を育て、大型の農業機械で耕し、ヘリコプターで農薬を散布する、こんな農業が健全な生命を育てているでしょうか。大豆については遺伝子組み換えのものが全体の半分を超えたといいますが、遺伝子組み換え作物が健全な生命といえるでしょうか。そう考えると、日本の農業はアメリカ型とでもいうような大型化した農業を目指さなくてもよいと思うのです。規模が小さく、単価は高くとも、より自然に近くより健全な作物の生産を目指す、そんな方向性をもっていただきたいと私は思うのです。
ですから、この狭い日本でアメリカ型の農業に対抗し負けない大規模農家を目標としないことにしてはどうでしょうか。自然豊かな日本ではむしろ、「自然とともに共生する」ような農業を目指すべきだと思うのです。廃棄物を減らすための「3R」運動というのがあります。できることならリデュース(排出抑制)、それがだめならリユース(再使用)、それがだめならリサイクル(再生利用)というのがありますね。農業についても同じように理想をいうなら自然農、しかしそれがだめならできるだけ有機農業、それも難しいのならできるだけ減農薬で、とこういうふうにできるだけ健全な農を目指してもらいたいと思うのです。
もちろん価格的には輸入食材と対等にやっていくのは無理だと思うのです。だから啓蒙や教育が必要だと思うのです。
    ・添加物は無いにこしたことはない
    ・冷蔵庫のお世話にならず、新鮮なものを食べることの大切さ
    ・地産地消の大切さ
    ・遠距離の輸入に必要となるポストハーベストのこと
    ・遺伝子組み換えってどういう事、何が心配?
等々、必要なことはいっぱいあると思うのです。食というものを考える、そんな教育も必要ではないでしょうか。見た目や価格競争に踊らされない、健全な農業を支える消費者を育てることも大きなテーマだと思うのです。
 こんな風に「きちんとした方向性をもって国としての舵取りをしてもらえるといいな」、と思うのは素人考えが過ぎるのでしょうか。
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ポスターに関連して

 「米の作りすぎは、もったいない」ポスターに関連して、私自身の考えがどうなのかもう少し整理してみたいと思います。
 私たちの食が「生命を食べる」ことだとすると、
        「農は健全な生命を育てること」
        「農業は健全な生命を育てる仕事」
ということになります。生命を育てている農業に価格競争はいかがなものでしょうか。健全に育てられた生命に価格競争を求めるのはおかしいと思うのです。「できることなら自分が食べるものは自分で育てたい」、そう思うのが自然ではないですかね。
 「自然農学びの会」に行ってはなしを聞いていると、はじめ野菜作りから始めたとしても、行き着くところは米の生産(稲作)にあるように感じます。主食を自分で生産してこそ・・・・、ということなのでしょうね。確かに主食である米を自分の手で納得のいくようにつくる、このことこそ大きな目標であると思います。
 しかし、年々の稲作の減反がすすみ、販売せず自給のみが目的の家庭にも減反の割当がくると聞きます。「自分たちの食べる米を生産するだけの土地があるのにそれだけ作らせてもらえない」、これは当事者としては納得のいかないことになることでしょう。「米を生産し供給してくれる農家を守るのか、それとも自給する小規模農家を守るのか」という選択になってしまうのでしょうか。日本の最近の農業政策は、海外で生産する安い農産物に対抗するには大規模農家を奨励し、競争力の大きな農家が生き残る手助けをするということのように思えるのです。

「生命を食す」

 食品添加物、ポストハーベストなどが施された食品はできることなら摂取したくありません。これらのものが私たち人間の健康にとって決して良くないだろう事は容易に想像できます。私もこんなふうには考えていたのですが、もうどのくらい前になるのでしょうか、クローン羊ドリー誕生のニュースが世の中を駆けめぐりました。クローン羊の延長線上には当然クローン牛があります。クローンの研究は人間の口に入る食肉がターゲットであることは間違いありません。私の心の中にはそういったクローン牛を受け入れない感覚があります。しかし、健康で肉質もよい牛のクローン牛を生産したとしたら、それを食したとしたら、人間は何かまずいことがあるのでしょうか。私がクローン技術を拒絶する根拠となるものはあるのだろうか、ただ観念的に拒絶しているだけなのだろうか、とそんなことを考え始めたのです。
 そうしてたどり着いた考えが、前回書いた「人間は生命を食べているのだ」ということでした。クローン牛がいくら健康な牛のクローンであって病理学的にも栄養学的にも問題ないとしても、おかしな生命の誕生過程を経てきた生命はとても健全な生命とはいえないと思うのです。
 私たちの食が「生命を食べる」ことだと考えることは重要なことだと思うのです。食品添加物の何が有害、何が無害なんていう知識は本当は必要なのでしょうか。そういう知識はなくとも、この「生命を食べる、健全な生命を」と考えることで自ずと私たちの食が正しい方向に向かっていくことになると思うのです。
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人間は何を食べて生きている?

     「私たち人間は何を食べて生きているんでしょうか?」
     「・・・・・。」
     「生命を食べて生きているんですよ。」
     「肉・魚・米・野菜、すべて生命です。醤油や豆腐はもとは大豆ですよ。
        ポテトチップスはジャガイモ、とんがりコーンはとうもろこし、・・・・。」
     「・・・・・。」
     「健全な生命を食して、健全な生命が得られるんだよ。」