月別アーカイブ: 2015年10月

忍野八海の今

白糸の滝のあとは引き返して山中湖方面へ、忍野八海にまわってみました。富士の伏流水が湧出してつくる小さな池群、なかでも湧池は大きな横穴からの湧水量が多く、水中に緑の水草がしげって流れになびいている様が印象的でした。観光客は少なく、道路端にごく普通にある池、でも近くに水車小屋が一つ建っていた、そんな静かなところでした。

でも今回行ってその変わりようはすごいものです。

忍野八海1最大の見所の湧池はご覧の通り、池の向こう側には田園風景が広がっていたのですが、今は周囲は埋め立てられ土産物店などがならび、そのなかに池だけがある。池の周囲の土は踏み固められ、水の湧き出し口の上には観光用の建物があり、人工的に作られた場所・アジア系の観光客も多い雑踏の中に池だけが取り残されているような印象です。そして池の中には大量の銀貨が投げ入れられてたまっています。さらにさらに、この一帯、やけにかやぶき屋根が増えました。それから立派な家も。世界遺産に登録されると言うことは、こういうことなのでしょうか。

 

忍野八海2池から流れ出した流れに沿って散策路があります。緑いっぱいの中の水の流れ、美しい風景ですがやはり自然の中の流れからは大きく変わって人間好みの風景にしてしまったようにも思います。

池だけを残して、あとの景観は全く変えてしまった忍野八海。今回で見納めにしようと思います。

秋の白糸の滝

富士五湖周辺の紅葉が見頃かと思い出かけました。でも残念ながら各湖の周辺の紅葉はまだちょっと早いようです。むしろの富士五湖にはいる前、甲府盆地側の北側斜面の方が紅葉の見頃を迎えていました。でもやっぱり湖のある風景、いいですね。

本栖湖畔で休憩・散策した後、ここまで来たのだからと静岡:富士宮の白糸の滝まで足を伸ばしました。駐車料500円也、以前は無料だったんだけどな。でも駐車場に綺麗な公衆トイレは整備されていました。

白糸の滝1

音止の滝と白糸の滝に挟まれた尾根、土産物屋の連なる道を下っていくと川に降りる直前に白糸の滝を遠望できる場所があります。まずはここから望遠で一枚。こちらも紅葉はわずかに始まったばかりです。ここから滝壺に向かって下りていきます。以前来たときからまた一段と遊歩道が整備され、開発がすすんだようです。こういうところも観光地化が進んで賑やかになるよりも、足下は悪くともひっそりとしていてくれる方が・・・・。

 

白糸の滝2

そして下からの一枚。ここは主たる滝の豪快さよりも、伏流水が絶壁の至る所から無数に湧き出し落下する細い流れの連なりの見事さです。でも、残念ながら私の腕ではうまくとらえられません。

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さらりと音楽談義(第4回)

第4回の「さらりと音楽談義」がありました。「音楽家:藤原義章さんといっしょに、演奏やお茶とともに、このよのまざまな事物をモチーフにして展開する気軽で楽しい談話会。」とはチラシから。私たち夫婦は二回目の参加です。今回のモチーフは「真似る」。

五輪のエンブレムの盗作騒動の話題からはじまりました。音楽の世界でも「全くのオリジナルで創作するというのはもはや不可能ではないか」とのこと。長い歴史の中で創作のアイデアは出尽くしている、だからなにかしら「真似る」部分が出てしまうのはやむを得ないとのこと。大作曲家のブラームスも親しくしていた弦楽奏者から訴えられたことがあるとか。ヴィオラの接着に化学的な接着剤でなく膠が使われる、はがしやすいことが修理できることにつながる。ブラームスとその友人とのつながりも強固な接着剤のようではなく膠のようにゆるやかなものだったんだと、こんな調子でユーモアも交えながらの音楽談義、たのしい時間です。

会場は南アルプス市の小笠原というところ。私は知らなかったのですが、この地域の人の間ではよく知れ渡っている歴史上の人物:小笠原長清についても話してくれました、郷土の英雄かな。平家に仕えていたが源頼朝の挙兵にともなって源氏についた人物、長野の深志城や高遠城も一族の小笠原氏が治めていたとか。流鏑馬をはじめ、広めたのも長清だとも。

この日もヴィオラ・ダ・モーレという楽器を持参して、音楽談義の合間にこの楽器で曲を弾いてくれます。先月予告してくれていたカザルスで有名なスペイン民謡「鳥の歌」、それから「南部牛追歌」。岩手の南部と山梨の南部のつながりにも話が及びました。

そして締めもやっぱりヴィオラ・ダ・モーレの演奏、

「愛の喜び」
ブラームス「ハンガリー・ダンス6番」

これで終わりかなと参加者の談笑のはじまる中にも「小さい秋」、でもこの曲の途中にちょっとだけ「夏の思い出」が登場したりして自由にアレンジを楽しんで聴かせてくれたのかもしれません。

4thさらりと音楽談義

今回はサークル状に長机をならべて参加者の顔を見ながらの談義。終わってみると壁際に花瓶にきれいに花が生けてあるのに気づきました。今回は花屋さんから調達してくれたのでしょうか、きれいな花です。スタッフの方々の心遣いにも感謝です。

秋の清里

清里1

先日、清里:美が森に行ってきました。紅葉の盛りは過ぎてしまって、この山の斜面はススキの原、おかげで下界の展望は遮るものがすくなくて・・・・。前方の林の中の直線道路の先が清里駅方面です。

清里2登りながら特に気になったのがこの白樺。葉は落ちてしまいましたが枝を広げた大木で、下から見上げると筋雲の青空を背景に大きな存在感で印象的でした。でも、そんな様子を切り取るのはむずかしいですね。

「テルアビブの犬」

テルアビブの犬

「テルアビブの犬」
小手鞠るい
文藝春秋

読み始めるに当たって「フランダースの犬」のオマージュ作品だと聴きました。

不遇な少年ツヨシと老犬ソラの固い絆、友達となった裕福なの家の少女などが登場し、まさにオマージュ作品。でも泣かされます。

愛犬の死までは「フランダースの犬」同様のストーリーに引き込まれますが、そのあとのアレンジにはちょっと・・・・。ツヨシはソラの献身もあり生き残ります。少年が目指すのは画家ではなく作家、そして「革命」というような思想に傾倒していきます。ネットで探ってみると、これは日本赤軍の人物をモデルにしているのであろうとのこと。でもどうも「フランダースの犬」風のストーリーに革命とか乱射事件とかはそぐわないように思ってしまいます。

フランダースがどうだったか記憶にないのですが、この作品ではツヨシの心とソラの心で語られていきます。両者が主人公ということなのでしょう、でも老犬ソラの献身的な大人の心が「できすぎではないか」、とも思ってしまいました。

素語り

絵本の読み聞かせが文化になっている剣淵という町をTVで見て、私自身もすばらしい町だなと感心しました。その剣淵町に限らず絵本の「読み聞かせ」はずいぶんと普及し、なじみのある言葉になりました。

一方、「素語り(すがたり)」ということばは「読み聞かせ」ほど馴染みのあることばにはなっていないように思います。そこでもう一つ、「素語り」についても書いてみたくなりました。

「素語り」はどうも朗読とは違うらしい。昔話や民話などをおぼえししまって語って聞かせる(新聞記事で、「暗記して」と表現した人もいましたが、これはちょっと情緒が感じられないな)。まるおぼえして、おはなしを自分のものにして語るものらしい。もうかなり前(20年くらい)からたびたび聞く機会があったのですが、これがまたいいのです。絵本の読み聞かせは聞き手には絵が見えてしまう。それは絵の世界とおはなしが融合して楽しめるのでしょうが、視覚的に見えてしまうものに縛られてしまうように思います。素語りではおはなしだけがはいってきて聞き手が空想をふくらませる、これがいい。我々が子どもの頃(小学校中学年まで)はラジオの時代でした。毎日流れてくるラジオドラマに聞き入って、頭の中で場面を描いて聞いていました。そんな時期を経験してきた私たちだから「素語り」がすんなりと楽しめるということもあるかもしれない。でも、映像も一緒にはいってきた中で育った人たちよりもより豊かなものがあるのではないか、なんて生意気に思います。頭の中で場面を描く経験は今の子ども達にもきっとよい成長をもたらしてくれるのではないでしょうか。現代の生活で子どもに「ラジオをききなさい」ともいえないし、また多くの人が楽しめるラジオドラマもないだろうと思います。そんな私たちが素朴な語りの中で想像をふくらませておはなしの中に入り込める「素語り」にも「読み聞かせ」同様に多くの人が関心を寄せてくれたらいいなと思います。

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絵本の町:剣淵

18日朝、NHKテレビ「小さな旅」を見ました。今回は、

ようこそ 絵本の町へ
~北海道 剣淵町~

というタイトル。以前に映画「じんじん」を見ましたが、この映画の中に登場する町です。

絵本で町おこしをした町。子ども達が木の下に座って絵本を広げています。一人で読んでいる子、グループで一つの本を囲んでいる子、そんな光景が自然にあるようです。町立図書館:「絵本の館」は全国でも有数の絵本専門の図書館。館内では声を出して読んでいいということで、子ども同士て輪になって読み聞かせをしていました。木製の壁で小さく仕切られたコーナーには絵本を持ち込んで楽しんでいる親子がいました。

なんと言っても魅力的だったところ。農家のおじさん達が居酒屋のテーブルを囲んで和やかに飲みながら食べながら語らいながら脇のバックを開く。と、何冊かの絵本がはいっていて、その中の一冊をとりだして語り出します、「はなさきやま」。するとまた別のおじさんがちがう絵本を、なかには手ぬぐいで鉢巻きをしたジャガイモ農家のおじさんがジャガイモを題材にした絵本をやっぱり読み聞かせ。こうしておじさん達が長年にわたって互いに語り互いに聴き合って自身の読み聞かせを高めてきたのだそうです。その楽しそうなこと。

長年読み聞かせボランティアをしてきた農家の主婦の方の小六の娘さんは自分でも読み聞かせをしたいと幼稚園で読み聞かせデビュー。その前にお母さんと一緒に図書館「絵本の館」に行って二人で絵本選び、本を手にとってページをめくる度に母子が交代で声を出して読んでいる姿もよかったな。家では家族を相手に練習、お母さんからの助言。そして当日・・・・。こうして絵本の文化、読み聞かせのこころが次の世代に育っていくんだな~と思いました。

番組中で言ってました。このまちでは絵本が、読み聞かせが、「当たり前の存在としてある」と。町にすばらしい文化を育てたんだなと思います。

 

ところで、「当たり前の存在としてある」という言葉に私の中に浮かんだことがあります。聴き合って唱って生まれるハーモニーのこと。分離唱の教育で生まれるハーモニー、学校教育で耳が育った人が次々と生まれてくる。その結果としていつでもどこでも当たり前のようにハーモニー。そんなことを佐々木先生は願ったんだろうな、なんていう思い。当時先生の口から聞かれた「合唱村」、ちょうど剣淵の絵本・読み聞かせを分離唱の合唱に置き換えたような夢でした。私たちには学生時代、毎日昼休みの30分間の合唱、そして水曜夕方の1時間半、土曜午後の3時間。そんな聴き合って唱う時間が当たり前のようにありました。そういう当時当たり前だった環境も、なくなってしまって初めてその大切さに気づかされます。一緒にハモれるひとが次々と学校から生まれてきてくれたらな、とそんな願望が私の中にもあります。

高校時代に山形の高校の分離唱教育で育った方達、数年前都内での演奏会を聴いた帰りのこと、マイクロバスでの山形への岐路に退屈だろうとお酒の差し入れがあったとか。でもこの人達は山形まで唱い通したそうです。そして私たちの同窓会、次々と第二の人生の年を迎える私たちもまた「集まればハモるのがあたりまえ」なんていえないこともありません。私たちの夢も全く実現できていないわけではないのかな。

今年最後の朝顔便り

今年最後の朝顔カーテン1例年では台風の接近に伴って、被害の予防のために朝顔カーテンを撤去するのですが、ことしはそういう心配せずに今に至りました。でもこの時期になると午前中の日が差し込む時間になってもこんなふうに家の中が暗いのです。写真では逆光で暗さが誇張されてしまいますが、でも昼間でも読書には照明が必要なくらいです。

そこでこの週末を利用して朝顔カーテンを撤去することにしました。撤去の前に現状の写真を少し。

 

今年最後の朝顔カーテン5全景です。今年は厚み、繁り方が若干少なめでした。下の方は緑がうすく、やはり肥料不足だったのでしょうか。でもおかげで朝顔カーテンに隙間があり、風通しがよかったかもしれません。

今年最後の朝顔カーテン3花もこの通り、まだ十分に鑑賞に耐えるのですが・・・・。この日の開花は70個ほど。

 

今年最後の朝顔カーテン4青いのが今日咲いた花、そして赤紫が昨日咲いたもの。夏なら一日で落花するのですが、この時期になると今日と昨日の花が同居して、これもまたいいかな。

そして写真を撮り終えたところで撤去作業にはいりました。プラスチック糸のネットに絡まったものは燃えるゴミの袋に詰めて収集日にゴミ集荷所へ、そしてネットがない部分は畑の肥やしにしようと肥料のから袋に詰めて実家の畑に持って行くことになりました。ぎゅうぎゅう詰めの可燃ゴミ4袋、肥料袋が4袋、今年はこれで全部です例年よりかなり少ないな。

そして、我が家に光が戻りました。

梨大演奏会記録

山梨大学合唱団第31回・32回演奏会の記録をアップしました。
30回と同様に演奏会パンフレットもPDFファイルでご覧ください。
以下のリンクです。

第31th定演   山梨大学合唱団第31回定期演奏会のページです
第32th定演   山梨大学合唱団第32回定期演奏会のページです

「たそがれ清兵衛」

たそがれ清兵衛

「たそがれ清兵衛」
藤沢周平
新潮社

以前は読み漁った藤沢周平ですが、このところご無沙汰でした。図書館で目に留まって、この作品は映画化されていてなかなかの味わいの作品だった記憶がありましたが、「これまだ読んでないよな」と。

一冊丸ごとの小説だと思っていたのですが、目次を開くとタイトルがいくつも並んでいるのです。この本が短編集であることも知らずに借りてきてしまいました。映画の原作はある程度長編だとの思い込みがありましたね。

「たそがれ清兵衛」はこの本に収められている第一作目、わずか五十数ページの短編でした。いつものように剣の達者な下級武士が主人公のシンプルなストーリーで、あっという間に読み終えて物足りなさも感じます。映画では娘が二人いて女房に逝かれてしまった下級武士、でも宮沢りえが演ずる女性が何かと助けてくれるようなはなしだったと思うのですが、ここではかの女性も娘も登場せず病弱な妻の面倒をみる愛妻家の下級武士として描いています。ですから、映画化するにあたってはかなりのアレンジです。藤沢作品も好きですが、それをあのように味わいある映画作品に仕上げるそちらの制作力にも感心してしまいます。

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