室内に置いているジャコバサボテンの鉢植えの花が最盛期になりました。
「子どもからもらったコーヒーカップと一緒に」です。夜撮った写真も、どうもフラッシュを焚かないものを選んでしまいます。こういうのは好みでしょうね。
アップしてもう一枚。花がいくつもついていると、どこにピントを合わせるのがいいのかわからなくなってしまいます。
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読者の投書欄に、11月6日付け新聞の「冷蔵庫は『食品の墓場』!?」にハッとさせられた旨の投書がありました。どんな記事だったのだろうと、新聞ストッカーの中から探し出して読んでみました。
毎日食べるだけの量を購入し使い切る、そんな生活をすればいいのだけれど、多くの人が必要以上に食材を購入し、冷蔵庫にため込んでいる。その結果?として、賞味期限をこえた食材が冷蔵庫の中に眠っている。中には数年たってしまったものも・・・・。冷蔵庫は大型化し、一人暮らしの年寄りが大きな冷蔵庫いっぱいにため込んでいる。
と、まあそんな内容の記事でした。
確かに冷蔵庫は食品が長持ちするというい性能を過大に評価し、食材をたくさん詰め込んでは使い切れないでいる。冷蔵庫が食材の腐敗を防ぎ安心な食生活をさせてくれる便利なものですが、冷蔵庫がなくてもできるはずのいつもいつも新鮮な食材を入手して食べていくという基本的な考え方を麻痺させている。私たちの痛いところをついている記事ですね。
気をつけないと。
今年、わずかばかり私が育てた自然野菜です。
いよいよ冬も間近、最近は霜の朝も増えてきました。そのため、大根の葉もぐにゃんとなり、太めのものを収穫しました。短い品種の方が強いだろうとの素人判断で蒔いておいたのですが、まずまずに育ってくれました。きめが細かく、大根おろしにするとちょっとねっとりと粘りけがあり、うれしくなりました。
チンゲンサイはこわくなってきて、もう収穫時期としては遅いようです。それでも正真正銘の自然農野菜、味噌汁に入れていただきたいと思います。
中央はヤーコン。今年初めてヤーコンという名を耳にしました。春の種苗交換会の折、全くの素人の私が一株もらってきて植えてみたものです。三井さんの農園のものに比べたら木の高さは3分の1か4分の1、従ってできた芋(?)もこのとおり小さいものでした。これは教わったとおり「きんぴら風」に料理していただくことになります。
満たされざる心(続)
話はまたそれてしまった。前記の金富小学校で、佐々木氏がそれを実地で試みられたことはいうまでもない。そしてその効果に、佐々木氏自身が、目をみはったことでもあった。やがて、それは、全国の小学校音楽教育の研究発表会で公開されることになった。
佐々木基之氏の音感教育の話をききに、全国から3500名の先生たちが集まった。そのときのこの3500名のなかに、山形から森山三郎氏がきていたのだ。森山氏は芸大の講習会が出張の目的だった。ところが芸大には一日だけ、残りの十日間は、この佐々木氏の音感教育の研究会に毎日通ったそうである。
増田さんの高二のときの、森山先生の心境の変化は、このころのことだったのかもしれない。それ以後というものは、山形の森山氏と、十七年間の小学校教員を終えて音感教育にうちこむ佐々木基之氏との間に、強いきずながうまれたのだ。
立派な教師が、正しい音楽教育に情熱を傾ければ、その下に育つ若い連中は、教師をとびこえて、どんどんのびていくものなのだ。森山氏の生活のなかにも、そのことを痛感させられることが多かったらしい。だから森山氏にとって、いや、彼の育てた山形南高OB合唱団にとって、東京の佐々木基之氏の存在は貴重なものだったにちがいない。佐々木氏は、一年に三、四回山形市に出向いて、直接指導に当るそうである。このOB合唱団は佐々木氏にとっても、きっと、わが子のように可愛いいのにちがいない。
ほんとうにしあわせな合唱団だ。こんなめぐまれた環境に育つ合唱団は、東京にだって少ない。合唱団のメンバーは、このことを肝に路じ、佐々木氏や森山氏に感謝を惜しんではなるまい。また、自分たちをとりまく周囲の善意にたいしても、あまえたり、慢心を抱くようなことがあってはなるまい。
佐々木基之氏は、合唱のあり方について、純正なハーモニーが人間の自然感覚であるはずなのに、パート練習やコールユープンゲンでドレミの練習を平均律のピアノをたたいてやるというのは、その自然感覚に逆行するものだ、という。そして、いかなる単音も、単音として孤立させず、和音のなかの音として感じて歌唱すれば、おのずと調和への意識が働き、音色は統一され、ハーモニーを作ればその純正なひびきは、うたう人の心に音楽的感動を引きださずにはおれないものだ、ともいう。その感動のあるところに、その曲のテンポも自然発生的にきまってくるものでもある。
(佐々木氏のお宅に集まる十名の″みちのく″のコーラスは、雑な大合唱団よりは遠かに感動的であった。それは、ひとりのこらずみごとにハーモニーのなかにあり、そのハーモニーに、彼ら自身が感興を生み、自然と、強弱テンポが生じ、聞く者に伝わってくるのだった。技巧や虚こうのないホンモノの心にうたれてしまうのだ)
また、合唱団のあり方について。-合唱のねうちは、大衆のものであるということ。ちょうど、誰でもが草野球を楽しむように、合唱の姿もそうあるべきだ。このあり方をレンゲ草にたとえるなら、コンクールの演奏は造花である。これを刺激にしなけれは合唱が育たないというのは、合唱の楽しみの本来のものや根本のことを忘れているか、さもなければ気づかないかのどちらかだ、という。
自然農の畑を借りている人たちの交流会がありました、夕食会です。オーナーのTさん宅で、Tさんが栽培した自然野菜をふんだんに使った料理の数々でした。(だから収穫祭か!)
けんちん汁は材料も自然農の大豆などを使った自家製味噌で、小松菜、ねぎなどの食材が、熱の通り具合もよく、香りたかいものでした。他のお皿には小かぶ、にんじん、油揚げなどの炒め煮。またサツマイモの素揚げに大根おろしをかけ醤油をかけていただきました。また、会員のEさんが黒豆とタマネギを山芋でつないだハンバーグを持ち寄ってくれ、きびの入った7分搗米ご飯とともにいただきました。
ごくごく普通の食をとっている私たちには、野菜の風味・素材を生かした「鮮烈」ともいえる夕食でした。我が家の食もこれから少し変わっていくかもしれませんね。
今回、カメラを忘れてしまいました。残念!
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山形南高OB合唱団についての特集記事、このところさぼってしまいました。最終章です。「冒頭に25年前のはなし」とありますが、この雑誌が発行されたのが1961年。そこから25年前ですから、もう3/4世紀ちかくも前の話になりますね。
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満たされざる心
むかしむかしの話だ。25年もまえの話。
東京音楽学校(いまの芸大)を卒後の佐々木基之氏は、東京の小学校(文京区金富小学校)に奉職した。若い佐々木氏の心のなかには、当時の音楽教育にたいして、決して満たされていたわけではない。いや、むしろ、何かが、根本的ななにかに欠けているとする、激しい不満があったものだ。
音楽教育に欠けているもの、それは何か。それを満すには方法がいる。それを果すにはどうすれはよいか。佐々木氏の苦悩は、周囲からは、変わった目でみられたものだという。何もしなくてもすむのが、教師という職業といったら怒られるかもしれないが、ささやかなわたしの経験からも、何人かの、毒にも薬にもならぬ連中がいるものだということは否定できないようだ。また逆に、やりだせば限りないひろがりをもつ、貴い職業だということも知っている。佐々木氏の態度が典型的な教師のものでなかったのかもしれない。とにかく、佐々木氏の頭の中は、この何かを求めることで、いっばいだったのだ。
そんなとき、音楽学校の同輩で友人でもあった園田清秀氏(ピアノの高弘氏の父君)の宅を訪ねたことがあった。たまたま、そのレッスンの場にいあわすことになった佐々木氏はレッスンをきいているうち、ハッとあるひらめきを感じた。いままでの苦悩が、いちどに発散するような気持だった。そしてそのあとに、それを方法として、一刻もはやく実践しなければいられない気持にかられたのだ。
こうして、佐々木氏の音感教育は、佐々木氏の心のなかに、はっきりと形をととのえてあらわれたのだ。その一つの方法として、分離唱、三声唱、分割唱がある。
分割唱の解明がおくれたが、これは分離唱の変型といったもので、T・S・Dの和音を、ききわけるところから出発し、つぎに、それぞれの三和音を分散的に、C、E、G。C、F、A。H、D、G、というようにスタカートで反復してうたう。この効果は、和音感を学ぶと同時に、リズムの訓練となる。分離唱や三声唱は、増田邦明さんの話のところでも書いたがこれらの方法こそ、百聞一見にしかずで心ある人は、東混なり佐々木氏の宅を訪ねて見せていただくとよい。ぜひ、このことをおすすめする。かくいうわたしも、この原稿の取材で、すばらしい収かくをえたのであった。そしてこの方法が、なんとまた目にみえて効果を生むものであるかも、その後二週間の、あるアマチュア合唱での実験で実証されたのだ。
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みずがき山からの帰り、行きとは違ったルートを帰りました。ちょっとした渓谷沿いルートです。こちらはちょうど紅葉の盛り、決して有名な観光地ではないのですが、なかなかの紅葉でした。
その中の一枚、「弁慶の力石(ちからいし)」です。
右側に写っているのが「弁慶の力石」。
「昔、弁慶がその力にまかせて大きな石を背負ってきましたが、ここまできて石をおろし一休みしました。そしてこの大石をおいたまま行ってしまいました。」
とまあ、こんなお話をこの石につけてしまったようです。
石の上には苔が生え、木も生えています。そしてそれらの葉もちょうど紅葉の盛りでした。石のうえの紅葉も捨てがたかったのですが、水の流れがその中に収まることも大切ですね。数多くの写真の中から選んだのがこの一枚です。
こんな自然を満喫したのが先週末のことでした。
先週末に紅葉を見に行ったところがもう一箇所あります。数年前に植樹祭が開催されたところ、私の好きな場所でもあります。
紅葉が遅れ気味の今年、ちょうどいいだろうと思っていったのですが少し遅かったですね。でも、ごらんのように瑞牆山に楓の紅葉を重ねて撮ることができました。
この場所、芝生の広い広場になっていて、周囲には白樺の木が生えています。この日は雲一つない晴天に恵まれました。青葉の白樺もいいですが、こんな風に枯葉となってしまった白樺も青空とのコントラストがいいものですね。
でもやっぱりここに来たからには正攻法で瑞牆山も撮りたいですね。以前は視角を広くとった写真を載せましたので、今回は主峰のみの写真です。
この山は特徴ある岩肌が魅力です。紅葉が終わってしまった後でも、あおい松が岩山をひきたててくれます。
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私は詳しくはないのですが、絵本にも秀作と駄作があるようですね。いつかこのブログにも書いた松井直さんの講演でも、素晴らしい絵本をいくつか紹介していました。その中の一つに、
「三びきやぎのがらがらどん」
マーシャ・ブラウン え
せた ていじ やく
がありました。同じストーリーでも訳者で全然違うし、絵によっても心に残り方が全然違うのだそうです。1940年作の超ロングセラーです。
この本と同じ作者の絵本を最近手にしました。
「ちいさなヒッポ」
マーシャ・ブラウン さく
うちだ りさこ やく
偕成社
我が家に転がっていたこの本を何気なく開いて驚きました。この絵本につかわれている絵は、どうやらすべて木版画なのです。版画特有な直線的な絵や決して複雑でない色づかいなのですが、登場するカバの皮膚には木目が見えます。水の中や暗闇に包まれたカバもうまく木目を生かして描いているのです。遠景の木々もうまく版画の手法で描いています。カバの目や表情がまた何ともいえずいいのです。
お気に入りの一冊になりそうです。