月別アーカイブ: 2006年7月

障子貼り

 昨日、障子貼りをした。障子貼りといえば子どもの頃は年中行事、正月を控えた年末に行う子どもの仕事だった。養蚕農家であったためか壁の少ない家で、部屋の仕切のほとんどが障子だった。年末に貼り直す障子の数は多かった。障子紙を最初は快調にビリビリ破き、そのあとは念入りにはげのこった紙をとる根気のいる作業だった。ノリは小麦粉を水で溶いて煮て作り、刷毛で障子の骨に塗る。新しい障子紙は幅が4~50cm程度に決まっていて、1本の障子を貼るのに下から上へ数回に分けて貼っていった。最後には水を口に含んで貼った紙に吹き付ける、これが乾くと貼った紙がピンと張ってくれた。


 それから、飼い猫の通り道として一箇所だけ紙に切れ目を入れておく。猫はこの狭い区画を潜って通り抜けていた。今の家の造りでは、こんな猫への配慮ができない。今の猫は大変だ。(笑)


 今回使用した紙は「アイロン障子紙」、アイロンを当てるとノリが溶けて、冷めると貼り付くというしろものだ。紙は大判で、障子一枚を一気に貼れてしまう。剥がすのにもアイロンを当てれば簡単にはがれる。便利になったものだ。しかしこのノリは紙の全面に塗ってある。使う部分にだけノリを刷毛で塗る以前のやり方から見ると、便利にはなったけれどももったいない部分もあると考えてしまう。貼り終えると子どもの頃と同様に、焼けて黄ばんできていた障子(紙)からよみがえった新しい障子の白の鮮やかさを感じる。

民芸品店

 旭川駅の観光案内で「民芸品のようなものを置いている店はないですか?」とたずね、駅から歩いて数分の店を訪ねた。木製の品物やら染め物などが多く並べられていたが、店の奥には仏様などの特徴的な絵画が並べられている。全て佐藤勝彦さんの絵だった。さらに、階段を上ると中二階のような比較的小さな部屋があり、ここは全て佐藤勝彦さんの絵の展示だった。店の人に尋ねると、もう何十年も佐藤さんの絵を展示し、販売しているそうだ。「この店にも何度も来たことがあるんですよ。」とのことだった。佐藤勝彦さんと言えば「ありゃせん、ありゃあせん」という著書が出版された頃、佐々木先生の口からこの本が紹介されて私たちも読んだ。お便りをご自由にというふうな後書きがあったことからハガキを出し、佐藤さん独特の仏様の絵が描かれたハガキを返信としていただいた。「佐藤さんの絵は私も好きなんですよ。」というと、「棟方志功さんの絵に似てますねという人は多いですけどね。(そう言う人はめずらしいですね。)」と言われてしまった。展示されている絵にはほとんど値札がついており、どれもとても魅力的ではあるがとても手が出ない。結局、小さな民芸品を買ってその店を出た。

旭川駅


 旭川の駅前にこんな木製の彫刻が立っていた。等身大というよりも更に大きい、迫力あるものだった。表情はよそ行きの顔と言うより、親しみのもてる顔である。脇では自転車族が自転車を組み立っていた。これからおでかけ?

富良野

 北海道に行ってきました。富良野のラベンダー畑は丁度見頃でした。少し季節が外れても花の絨毯となるよう、いろいろな花が次々と咲くそうですが、やはりラベンダーが咲いていないと観光客はがっかりするそうです。「だまされた」なんていう人もいるそうです。私たちは全くラベンダーのいい時期に訪れることができたようです。
 
 

県内合唱関係者の評価

 私たちの合唱団のメンバーの中には、県内の合唱界で有力な高校から入団してきた人もいる。もちろん高校時代も一生懸命活動してきた人達だ。この人達も佐々木先生の音楽に魅せられていった。後から聞いた話しだが、この人達は母校に行っては肩身が狭かったらしい。母校の(有力な)音楽の先生にとって、私たちの合唱は大変不満だったそうだ。いわゆる合唱界の実力を求めていくような価値観で眺めると、私たちの合唱には何の価値も感じなかったようだ。母校に行くと、「あんた達、何やってるの」と厳しい声を投げかけられたという。


 ハーモニーというのはどうもなかなか理解されないらしい。音感合唱の世界に入ってしまうと、ハーモニーのない合唱など思いもよらないものになってしまうのだが、多くの人はただ音が重なっていればハーモニーと感じてしまうようだ。そしてきれいなハーモニーを聴いていただいても、その感慨はあまりないようだ。今まで「美しいハーモニー」と思う録音は多くの人に聴いてもらってきた。しかし、私たちがいいとおもってきたハーモニーをなかなか理解してもらえない。


 佐々木先生の音楽の世界もまた多くの音楽界の人に理解されていない。それがこの文章の始めに書いたようなことになって現れてくる。もう何度も書いてきたが、先生の指導・指揮のもとで唱っているとそれこそ私たちの感性に響いてくるものがある。そういう私にとって音楽の本質と思えることが、なかなか理解してもらえない。

もっと身近な雨水利用

 昨日、私の所属する会の会合があった。私たちの会ではこのところ雨水利用の普及に向けた取り組みが話題になっている。


 私の雨水利用は下水道化に伴って不要になった浄化槽の利用によっているが、そのような環境や必要に迫られる人は少ない。雨水利用と言えばむしろ簡単なタンクを地上に用意し、雨樋から直接このタンクに貯めて、タンクから自然流下させて利用するのが普通だ。地下水槽の場合はくみ上げポンプが必要になるが、地上タンクなら電気も使わずに雨水を利用できる。タンクは何を使ってもよいが、プラスチックのワイン樽が安価で入手できるという。私たちの会ではこの樽を使って雨水槽として利用できるような体験的な講習会を行うことになった。講習会は甲府市で行われる予定です、関心がありましたらどうぞ。

愛の挨拶

 土曜ドラマ「人生はフルコース」を見ている。3回シリーズで、今回はその2回目だった。先週もそうだったが、このドラマのなかでは頻繁にバックでひとつの曲が流れている。この曲も私が卒業後ではあるが先生がフルートと合唱を組み合わせた編曲をして、合唱団で唱った曲だ。だからこの曲もまた私は合唱で覚えたものだ。ドラマの中で聴きながら、「あ、これもかつて合唱で聴いた曲だ」と思う。名前も知らないこの曲について資料を紐解いてみると、この曲はエルガー作曲の「愛の挨拶」とある。
 
 この曲を唱ったのは1982年の定期演奏会及び東京公演。この年は先生の幼い娘さんのフルートやクラリネットと一緒に唱った「愛の挨拶」「サラバンド」、同じく娘さんのピアノと共演した「ラシーヌ讃歌」、チェリストのお弟子さんと共演した「G線上のアリア」など楽器とともに唱ったステージが特徴的な演奏会だった。定演は、今はもうなくなってしまった県民会館大ホールの前方右側に座って聴いたが、すぐ後ろに楽器をする人が座り、聴いているあいだずっと楽器の技術的なことをあれこれと話していた。演奏会をそんな聴き方をしてもしようがないのにとの思いと、大変なところに座ってしまったという苦い思い出の演奏会だった。(私自身は楽器との共演の合唱を楽しんでいましたよ。)

知らない花2

 わが家のデジタルカメラは数年前に買ったものだ。メーカーの新機種への移行に伴って安くなったところで買った製品だ。撮影のためのいろいろなモードがあるらしく、上面にそのためのダイヤルがある。しかし、こういう買い物をしても付いてくるマニュアルをなかなか読む気になれなくなってしまった。最近になってやっと被写体との距離を短くして撮影する方法やフラッシュを自動でたいてしまわない方法を知った。



 わが家の庭に次々と生えてくる生命力の強い草が、こんな可愛い花をつける。根を強くはって自然に増えてゆく。花の期間も長く、私たちを楽しませてくれている。

誰か夏の暖房をとめてくれ~!

 今日はこの夏一番の暑さ、盆地は37.7℃だった。すごい暑さだ。こんなとき、標記のことばを思い出す。これは、以前このブログで紹介した本「汚れとつき合う」の中に書かれていたことばだ。


 人間は電気エネルギーをさまざまな形で利用している。電気エネルギーを使ったとき、そのエネルギー全てが有効に利用されるわけではない。効率は必ず100%未満で、残りの部分は全て熱に変わる。エアコンも例外ではない。建物のエアコン(冷房)は、屋内の熱を工夫して屋外に持っていって捨てる装置だ。だからエアコンに使われる電気エネルギーが100%有効に使われた場合、屋内から出ていった熱と屋外に排出した熱が等しくなる。部屋の中では涼しくなって快適だが、簡単に言えば屋内が冷えた分だけ屋外が熱せられる。屋内・屋外をトータルするとプラスマイナス0、つまり人間がさんざん工夫して冷やしたように思っているのだが、視野を広くして見ると全く冷えてないことになる。


 更に付け加えると、効率は100%ではない。ロスした電気エネルギーは熱に変わる。だからエアコンで冷房を行うことは、トータルで熱を余計に出す「暖房」をしていることになる。ビルの屋外機からは熱風が吹き出してくる。エアコンをかけている自家用車は、歩行者にとっては熱風が走ってくるようなものだ。こんなふうにしてみんなが酷暑の夏にせっせと暖房をしているのだから、私たちが子どもの時代に比べて最高気温がグンと高くなり、熱帯夜が続くことなど当然のことといえる。都市部の気温が周囲に比べて高くなってしまう「ヒートアイランド現象」も当然のことだ。


      「誰か夏の暖房をとめてくれ~!」


私もそんな気持ちだ。。