分離唱を教える
確実に子どもたちは素直になって行った。
山梨大学合唱団のハーモニーの心地よさは、しばらくの間、私の体のどこかに余韻として残っていた。それから二、三日は実際不思議なほど何をやってもよい気分でピアノを弾いても子どもたちといても、何だか愉快で仕方なかった。梨大の合宿がきっかけで、やっと私は腰を上げて子どもたちに分離唱を試そうと決心がついた。
私は、どちらかというと自分の力よりも、子どもたちの正直な心だけを頼って分離唱に取り組んだ。最初に私か気がついたのは六年生の変化だった。一ヵ月ほど経った頃から子どもたちの私を見る目がちかって来たのだ。それまで振りむきもしなかった子どもたちが、廊下ですれちがうと深く頭を下げて挨拶をするようになった。挨拶をされているのは、私ではない。きっと子どもたちは楽しくなって来た音楽に対して感謝の気持ちを抱くようになったのだ。なぜなら私は今までと少しも違ってはいなかったのだから。でも、確実に子どもたちは素直になって来ていた。そして、私の方こそ、何かに手を合わせたい気持でいっぱいだった。
「六年D組の記録」
昭和五十三年九月六日(水)、分離唱をはしめた。
先生が変なことをやっている、という顔をしている。でもついて来る。分離唱のあと、その声で簡単なハーモニーの練習をした。くすぐったそうな顔をしている。学力はとてもよいが、音楽を味わう様子を見せなかった男の子が目をつむって歌っている。この日、一番嬉しそうな顔をしていたのは、日頃音楽的に活躍の場を持たない男子たちだった。帰り道、入って来た時のあの騒がしさは消えていた。
九月八日(金)(開始後二時間目)
分離唱のあと、ハーモニーの練習をしたが、こんどはむずかしいものを与えてしまった。(あとでわかったことだが、簡単な三つの音でハーモニーをつくる程度の練習で、子どもたちは耳をひらいていくことができたのだ)。私がしつこく要求したために子どもたちはけだるそうだった。大失敗の授業だった。
九月十二日(火)(開始後三時間目)
子どもたちの足どりは重かった。だらだらした昔の子どもたちにもどってしまっていた。分離唱をはじめたが、平気で大声で(わざとではなく)歌いはじめ、ピアノを聴くようになるまで時間がかかった。そしてまた、その声でハーモニーをつくった。(全員が三つに分かれて、それそれ「C(ド)」 「E (ミ)」 「G (ソ)」 の音を受け持ち、同時に歌うだけの簡単なものである)。意外と素直に歌っているのにおどろいた。いつの間にか表情が明るくなっている。
やり過ぎをさけて、教科書の歌を歌った。教室の中がやわらいでいる。活気が出て来た。実に楽しそうに歌っている。帰りは、女子も男子も皆、私に声をかけて行った。「せんせい、さようなら」と。
(分離唱。ハーモニーの練習は、ほんの十~十五分でよい。あとの時間は、先生の伴奏でのびのび歌って《斉唱》心を開放させる。耳がひらいたら、自然にハーモニーの練習が合唱につながっていく)
ニコニコとして入って来る。分離唱も素直だ。ピアノをよく聴いている。楽しそうに歌って帰る。九月二十九日(金)(五時間目) 私に対する態度が前と違う。どの子も親しそうな目を向ける。私の雑談よりも音楽することに喜びを感じる……そんな子どもたちである。