「先生、音楽つらいよォー」
やればやるほど、子供たちは音楽ぎらいになっていった。
らいよォー」と言っているような子どもたちの目が、いつも私を悩ませていた。
それがどうだろう。この本によればどんな人でも、楽しく合唱が、音楽ができるようになるというのだ。もしそれが本当ならば、子どもたちを救うことができるかも知れない。
そう考えると、私は佐々木先生のところへ電話したくなり、居ても立ってもいられなくなった。私は「分離唱」のレッスンを受けてみようと思ったのだ。
私の決心を裏づけてくれたのはこの本の中に書かれてあった二つの手記だった。それは分離唱を受けたことで、心から楽しんで合唱できるようになったという、二人の大学生(男子)によって書かれたものであった。
《ハーモニーに浸っている時の気持ち……それは、ただ一言、佐々木先生の言われる『天国に遊ぶ』ということばが一番ピッタリとくる状態である。分離唱によって耳をひらくことを、先生は人間革命だと言われたが、それは本当だった。分離唱はまさに目で見ることのできない精神的な深い世界をのぞく感覚を身につけさせることを教える。……》
《分離唱を受けた僕が#(シャープ)やb(フラット)の沢山ついた譜面をドレミ……などと読めなくても、歌えて暗譜できるようになったのです。初めは他のパートを聴くことなどできず、自分のパートの友人の声を聞いて歌うのが精一ぱいでした。しかし、この頃不思議と他のパートの声がきこえて来るようになりました。まるで雲の上にでもいるような心地良さがたまらなくなりました。……》
私も体の調子のよい時には声がスムーズに出て、気持ちよく歌えたとか、指揮者に引き込まれてしまった、ということは感じたことがあるが、この学生さんたちのことばは、どうもそれらとは違っているようだ。人と合唱しながらも体も心も素直になって歌える、ということらしい。「天国に遊ぶ」というのは、力まなくても、自然な状態で歌える、ということではないかと思った。
もしもそうなら、私には大変うらやましいことだった。五年間の音大生活とその前後の長い音楽経験の中で、学生さんたちの言うような体験は、ただの一度もなかったからだ。
私も、となりの友だちも、皆自分の声だけを守って歌っている世界だった。常に体や精神
の状態を最上に持っていく努力をし、音楽する時には、発声は? 声の響きは? 姿勢は?と日頃から練習して来たことを、いつも頭においてしなければ歌も歌えなかった。
私は、そういう音楽をすることに疲れてしまっていた。もっと、何も考えずに心のままに、水の流れるごとく、風のそよぐごとく自然に心を安らげることができたら……そんな音楽があったらいいな、と思うようになっていたのだ。
私か音楽教師になったのも、一つにはそのことが原因している。子どもたちの素直で素朴な心から生まれる音楽は、こんな私を救ってくれるにちがいない、と思えたのだ。いや、本当は音楽を離れた教師になりたいくらいだった。
それほど子どもたちに憧れていたのに、その子どもたちさえが、こうして私の目の前で苦しんでいるのだ。一体、これはどういうことなのだろう。私は何をすればいいのだろう。やればやるほど、子どもたちの中に音楽ぎらいをつくって行くようだった。
そんな状態でいた頃に出会ったのが、この「耳をひらく」だったのだ。きっと、この本の中には何かある、私を救ってくれるものが……そう思った。私はその日、夜を待って佐々木先生のお宅へ電話をかけた。そして次の日曜日におしゃまする約束をして電話を切った。