音感教育で育った美しいひびき

“音感教育で育った美しいひびき”
みちのくに実った山形南高OB合唱団

「合唱界」 1961年8月号より

 初夏の風かおる夕、南高合唱団を訪ねた。彼等の母校南高等学校の玄関から長い廊下を、キャプテンの、調所さんの案内で歩くうちに、「うるわし五月に つぼみも開けば・・・・・・」記者は一瞬わが耳を疑った。これが東北の青年達の歌声であるのだろうか・・・・・・。
普通教室の二倍程の音楽室に十数名の青年が田島義久さんの指導で歌っていた。小柄な田島さんの鋭い耳はいささかの音の狂いも見逃すことなく指摘しては響きは次第に美しく変わってゆく。この合唱団は昭和二十六年四月卒業生五名で始められ、今年で満十周年を迎えた。在学当時は森山三郎教諭の指導で音感教育を受けた。そのため音痴で中学時代は歌わなかった者も、何時か熱心な合唱愛好者となり、メンバーの中では「私は音痴でして・・・・」と涼しい顔をしている人も少なくないようだ。卒業してみると社会にも家庭にも合唱の仲間はいない。やむにやまれず横山良介、石沢行夫、砂山弘、中村博、田島義久さんの五人で合唱を続けることになった。
五人のいるところ駅でも車中でも道路でもハーモニーが響き、周囲の人達の耳を楽しませた。二十九年十月当市音楽協会の招きで佐々木基之氏が弟子数名と共に山形市へ来た。

駅に出迎えた佐々木仁一医博と共に、森山氏は恩師佐々木氏と十数年ぶりの対面をした。森山氏の話は十数年間の苦心の報告で佐々木氏を感激させた。その時駅頭で、この数名の教え子達のハーモニーを、佐々木氏は発見した。これは大変美しい。第一級のハーモニーだと絶賛をうけた。勇躍した五人のメンバーは次々と同士を誘って名実共に南高OB合唱団の結成をみるに到った。現在では既にキャプテン調所さん以下数名は結婚し子女をもうけたが尚もハーモニーの火を消すなの一念に燃え、若干ながら就職転勤、県外留学等メンバーの移動はあっても会員数は三十数名を持ち、職業も会社員、教員、銀行員、公務員、警察官、歯科医、粉屋、電気商、商業等々大学生に至るまでで、今では毎年秋一回の発表会は山形市民のオアシスとなって九百名定員の公民館は超満員になる。同市の名士達の中から後援会の発起者も現われ、この合唱団の練習用録音テープ等はコピーを重ねて、レコードになったら・・・・・・との要望の声も盛り上がっている。東京の音楽評論家宮沢縦一氏もファンの一人として「東京には技術の立派な合唱団は多いが、聴いて楽しい合唱団は少ない。山形南高OB合唱団は何曲聴いても楽しい。この合唱団の発展を祈る」とのメッセー

ジをもらったこともある。流行のコンクールにも何らの関心もなく、ビールを飲めば歌い、集まれば必ずハモる。
同市の歯科医の故東海林耕祐氏は後援者第一号として、毎年数回来形する佐々木氏の定宿を引受け、ここはメンバーの倶楽部となり、それまで音楽嫌いで有名だった東海林氏も三十年四月急逝されるまで治療の合間にはこの合唱を何よりの慰安とされた。彼の没後は、あい未亡人、長子修氏も共々に氏の遺志をついで後援してこられた。同合唱団を知るものは誰でも知っている美談となっている。しかも、この合唱団の第一回発表会は実に東海林氏の追悼音楽会として発足したことも心温まる思いである。
記者はメンバーが交互に語る以上の話を聴くまでもなく、彼等の歌う合唱の一つ一つに愛と協力の美しい心を無限に汲みとることができた。記者が辞去したのは既に十時を過ぎて初夏の爽やかな空気と共にハーモニーを満喫して帰路についた。みちのくの名もない野の花の美しさにも似た、この素朴な合唱がもっと広く多くの人達に愛の囁きを伝えるよう祈らずにはいられなかった。(五月二十七日)

湊 和夫

 

 

 

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