特集 “野の花”のごとく (その4)

   増田青年の情熱

 増田さんは、東京混声の団員で、東混を作り育ててきた人のひとりだ。メールクヮルテットのひとたちや、指揮者田中信昭氏とも、芸大の同クラスで、東混を作るに当って、増田さんが技術面の分担を受けもった。
彼の合唱への情熱は月並みなものではない。東混のなかでも、彼は目立たぬ立場であることを十分に知っていたし、何年も縁の下の忍耐にたえてきた。彼にあるのは、かっての体験からの強い自信と、東北人のねばり強さであろう。東混の今日の演奏は、彼の技術指導の努力も大いにカがあったといってもいいすぎではないだろう。話はついでにそれて恐縮だが、東京混声を支えてきたものは、発足当時からのメンバーの、見事なコンビによるものだともいえる気がする。増田さんの地味なねばりと自信。メンバーより五才年長だった田中さんの統率力と音楽のまとめ役。それにアンサンブルには情熱を傾けて悔いないほかの連中。もうひとりはマネージャーの松浦さんだ。彼もYMCAの合唱で、後述の佐々木基之氏とは無関係ではない。そういった組合わせが、東混の支えとして、いまもなお続けられているときく。

 

 さて、話を山形にもどそう。

当時の増田青年は、南高二年のとき、事情で一時群馬に転校しなければならなかった。送別のとき、コーラス部全員が駅まで送ってくれたものだ。そのとき駅頭での、いつとはなしにはじまったハーモニーの美しいひびきは、いまでも忘れることができない。
転校さきの群馬では、コーラス部はあるにはあったが、彼をみたすようなものではなかった。教師は、そのうち増田青年に指揮をまかせっきりといった、悠長さかげんだった。近くの女子高校とも、合同で混声をやったが、彼は、このグループにたいして、山形で体験した森山先生の指導を用いた。
これは、美しいハーモニーを作るには、もっとも理解しやすい、そして効果的な方法でもある″分離唱″というものなのだ。これを説明するには、音感教育で著名な佐々木基之氏のことを話さなけれはならない。また、この方法が、みちのくの一隅で実を結んだいきさつは、山形南高の森山三郎氏と佐々木氏との出合いの場からも話さなければならない。このことは、あとで述べよう。
増田青年の、このときの分離唱の効果と体験は、あとになって、東混を生むきっかけとなったものでもあった。
増田さんが芸大への進学を決心したのは、そのころのことだ。一生を音楽にゆだねようと決意したとき、彼は、じつとしていられなくなった。そのとき、彼の心に呼びかける声があった。彼には南高の音楽的な環境が、たまらなく恋しくなってきたのだ。彼は単身、ふたたび山形に舞いもどってきた。彼をそうさせたものに、南高の合唱と、森山先生の指導力と人柄とがあった。彼の高三のときだ。水を得た魚のように、彼の進学準備がはじまった。
そして秋も暮れに近く、彼は上京して渡辺高之助氏に師事し、やがて翌年には芸大に入学したのだ。それから数年。芸大卒業も間近かくなったころ、このOB合唱団は、第一回の東京での演奏会をもったのだ。

この日、増田さんは、上京の連中と一緒にうたった。美しく乱れることの知らないハーモニーは、一層のみがきさえかかっていた。専門教育を経た彼なのに、なにか、このズプなアマチュアの連中から、無言の威圧さえ感じられたものだ。こういったことにも、彼が東混を作るための動機がひそんでいたのかもしれない。
なつかしいOBたちの話では、この演奏会のために、佐々木基之氏にわざわざ山形まできてもらった、ということだった。そして、上京に先だって、夏、山形市での最初の演奏会もやってきたそうだ。度胸だめしといってはわるいが、近郊の小中学校まわりも数回試みたという。話をきくうちに、増田さんは、彼らとの縁が、簡単にたち切れるものではないのを感じたものだった。
増田さんと同じように、在京のかってのコーラス部員たちは、ほとんどが合流して、第一回発表会のステージに上った。勤めの人もいれは大学生もいる。曲は、むかし繰り返し何度も楽しんできたものだ。普通に考えれは、晴れのステージなのに危険を感じるのだが、彼らにはその心配がなかったといってよい。合流した者たちは、立派な調和さえ生んだのだ。現在では、この在京の連中が十四、五名で集まり、毎週一回、高田馬場の佐々木氏宅で合唱している。最近、この東京支店に、”みちのく”という名前がつけられた。わたしが取材でお邪魔したとき、たまたま彼らの合唱をきくことができた。佐々木氏に分離唱、分割唱、三声唱を実際にやっていただいて、それから彼らの合唱がはじまったのだが、そのハーモニーの美しさは、いままで聞いたことのないほどの純粋なひびきをもっていた。取材するわたしのペンの手が何度も止まってしまうほど、心までもうばう美しさであった。
六年前の彼らの上京に、いろんな苦労があったにちがいない。メンバーたちは、いまでは、さまざまな職業にたずさわっていて、仕事で上京できなかった人もいただろう。第一回も、演奏会は黒字だったそうだ。税務署など、田舎の合唱団の上京ときいて、ずい分同情的だったそうだ。
それにしても地方にいれは、東京というと、すばらしく立派な団体ばかりに見えるものだ。そういう先入感が彼らにもあったにちがいない。その不安も、佐々木基之氏の助言で克服した。佐々木氏の彼らにたいする評価は、決してあやまってはいなかったのだ。
こういう合唱団にしても、やはり、合唱団としての悩みはあるのだ。二年後の、第二回東京公演のあと、集まりがわるくなったりして、不振な状態だったこともある。今年などは、東京進出はダメかとおもわれた。しかし、そんな語がちらほら出はじめるころになると、どういうものか、期せずして盛りあがってくるのだそうだ。

増田さんと、OBの連中の話をもう少ししよう。コーラス部での音感教育で得をした話。
増田さんは、高校当時は、それほどめぐまれた生活環境ではなかったという。そこでアルバイトをおもいついた。それは、映画の宣伝のためのチソドン屋であった。
さいわい学校にはプラスバンド用に楽器がおいてあった。さきほどの五人組といっしょに、それぞれトロンボーン、クラリネット、トランペット、ドラム。増田さんはバリトンといった編成だ、映画スターのお面をつけ、背には大版のビラをはためかせて、「銀座カンカン娘」も高らかに市内をねり歩いた。数カ月もつづいたこのアルバイトは、結構ギャラにはなったそうだ。
そこで、得をしたというのは、このチンドン屋諸君が、米沢市のある節からの招きで出張演奏をやったときのことだ。多少はいじりなれた楽器でもあったが、譜面があればなんとかなるものの、商売となれぼ、その譜面さえない。わがままはいってはいられない。なんとかかんとか、和音を追っかけなければならない。聞いたこともない流行歌の、またなんとたくさんあることか。純情な彼らは、一生懸命に、音感教育を実地に学んだ。そして冷汗をかきかき、コーラス部での経験が、かくも生かされようとは思わなかったと語りあったそうである。

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