月別アーカイブ: 2007年9月

アサガオその後

猛暑の夏、それから厳しい残暑が続きましたが、この週末は急に涼しく(寒く)なり、こたつがちょっぴり恋しいほどでした。
我が家のアサガオは、その後もよく茂り咲き続けています。2階の木製バルコニーの手すりを埋め尽くし、毎日たくさんのつぼみが開花しています。
朝顔その後1

29日、たっぷり雨が降った朝の様子はこんなです。水滴がころころと玉になって花びらの上に乗っている姿はいいものですね。
長い期間花を楽しませてくれるアサガオですが、居間をしっかり覆って暗くしてしまう状況では、日光が恋しくなる季節には切り落としてしまわなければなりません。もうしばらく、しっかり花を楽しんでおきたいと思います。

朝顔その後2

 

(18.0k CT)

特集 “野の花”のごとく (その8)

   東混での成果
 増田さんと東混の話は、まえに書いた。増田さんは、この一年ほどまえから、再び、佐々木基之氏のもとにレッスンに通いはじめているそうだ。佐々木氏の音感教育とは″音に感じる″ことだという。物理現象の音を、人間の精神の高さまで引きあげ、それによって創造しようとするものだ。東混の指導にあたっていて、彼はさらに高い飛躍の壁に行きあたったのかもしれない。
 増田さんの話の最後に、彼が東混でやっている佐々木氏の音感教育の方法を、紹介することにしよう。
 現在東混では、増田さんの他に二人のトレーナーをおいて、この分離唱を行なっている。四十名近くの団員を三分して、ひとりが十二、三人を受けもつことになる。これくらいだと30分くらいで指導しやすいとのことだった。
 まず、ひとりひとりに分離唱を行なう。CEGの三和音を分散和音でなくひき、その余韻を利用して、その和音のなかにとけこめるようなC、E、Gを反復うたわせる。そのためには、よく耳をすませて和音を聞かなければならない。その和音に関する限り、CもEもGも一定の音しかありえないから、もしそれを数人で斉唱させたとしたら、結果は、一本に統一された美しいユニゾンの線が得られることになる。各人が、和音のなかでとらえた自分の音がどんなものか、これは決して単音練習から得られるものと同じではないことを知るのだ。平均率に調律されたピアノ(これも絶対にすべての音が平均率に等分されているとはいえない。調律が調律師の耳と技術でなされる限り、また、使用したあとのピアノでは、狂いはだんだんにひどくなるものだ)を手段に利用することによって、人間の自然感覚のなかの純正調を引きだすわけだ。人間の自然な感覚に依存すればいいのだから、こんな簡単なことはない。むしろ平均律にあわせることのほうが、百分の何パーセント狂わせることのほうが、はるかにむずかしいものだともいえる。

鎌倉の竹林

小旅行に行ってきました。横浜に1泊、鎌倉少々のゆったり旅行でした。
鎌倉ではあまりメジャーではないのでしょうが、竹林のきれいな報国寺という寺に行ってみました。そう広くはないのですが、見事な孟宗竹の竹林でした。写真に撮ったのですが、実際の竹林の中の空気はほとんど伝えられない感じです。直前に私がちょっとだけおつきあいをいただいている方の
「ほっと一息~日記」http://blog.livedoor.jp/hisnaitoblog
を見てしまったためか、私の写真(撮影)の未熟さを痛感してしまいます。それでもとにかくこの寺の竹林の雰囲気、少しは感じていただけますよね。
報国寺竹林

竹林の回廊をぬけると、岸壁に横穴が3つほど掘ってあり、その中に石塔などが配置されていました。山を切り落として寺をつくった、いかにも鎌倉らしい風景だなと思いますね。
報国寺崖石塔

特集 “野の花”のごとく (その7)

   増田青年の情熱(続・続・続)
 増田さんと、OBの連中の話をもう少ししよう。コーラス部での音感教育で得をした話。
 増田さんは、高校当時は、それほどめぐまれた生活環境ではなかったという。そこでアルバイトをおもいついた。それは、映画の宣伝のためのチソドン屋であった。
 さいわい学校にはプラスバンド用に楽器がおいてあった。さきほどの五人組といっしょに、それぞれトロンボーン、クラリネット、トランペット、ドラム。増田さんはバリトンといった編成だ、映画スターのお面をつけ、背には大版のビラをはためかせて、「銀座カンカン娘」も高らかに市内をねり歩いた。数カ月もつづいたこのアルバイトは、結構ギャラにはなったそうだ。
 そこで、得をしたというのは、このチンドン屋諸君が、米沢市のある節からの招きで出張演奏をやったときのことだ。多少はいじりなれた楽器でもあったが、譜面があればなんとかなるものの、商売となれぼ、その譜面さえない。わがままはいってはいられない。なんとかかんとか、和音を追っかけなければならない。聞いたこともない流行歌の、またなんとたくさんあることか。純情な彼らは、一生懸命に、音感教育を実地に学んだ。そして冷汗をかきかき、コーラス部での経験が、かくも生かされようとは思わなかったと語りあったそうである。

月下美人

義母が育てた月下美人を一株分けていただきました。
この夏、一度咲きそうになったのですが、暑さのためかせっかくのつぼみがだめになってしまいました。しかし、暑さを避けて朝顔の緑のカーテンの裏においていたところ、またつぼみがふくらんできました。今度こそはいつ咲くかと期待しています。
月下美人

特集 “野の花”のごとく (その6)

   増田青年の情熱(続・続)
 この日、増田さんは、上京の連中と一緒にうたった。美しく乱れることの知らないハーモニーは、一層のみがきさえかかっていた。専門教育を経た彼なのに、なにか、このズプなアマチュアの連中から、無言の威圧さえ感じられたものだ。こういったことにも、彼が東混を作るための動機がひそんでいたのかもしれない。
 なつかしいOBたちの話では、この演奏会のために、佐々木基之氏にわざわざ山形まできてもらった、ということだった。そして、上京に先だって、夏、山形市での最初の演奏会もやってきたそうだ。度胸だめしといってはわるいが、近郊の小中学校まわりも数回試みたという。話をきくうちに、増田さんは、彼らとの縁が、簡単にたち切れるものではないのを感じたものだった。
 増田さんと同じように、在京のかってのコーラス部員たちは、ほとんどが合流して、第一回発表会のステージに上った。勤めの人もいれは大学生もいる。曲は、むかし繰り返し何度も楽しんできたものだ。普通に考えれは、晴れのステージなのに危険を感じるのだが、彼らにはその心配がなかったといってよい。合流した者たちは、立派な調和さえ生んだのだ。現在では、この在京の連中が十四、五名で集まり、毎週一回、高田馬場の佐々木氏宅で合唱している。最近、この東京支店に、”みちのく”という名前がつけられた。わたしが取材でお邪魔したとき、たまたま彼らの合唱をきくことができた。佐々木氏に分離唱、分割唱、三声唱を実際にやっていただいて、それから彼らの合唱がはじまったのだが、そのハーモニーの美しさは、いままで聞いたことのないほどの純粋なひびきをもっていた。取材するわたしのペンの手が何度も止まってしまうほど、心までもうばう美しさであった。
 六年前の彼らの上京に、いろんな苦労があったにちがいない。メンバーたちは、いまでは、さまざまな職業にたずさわっていて、仕事で上京できなかった人もいただろう。第一回も、演奏会は黒字だったそうだ。税務署など、田舎の合唱団の上京ときいて、ずい分同情的だったそうだ。
 それにしても地方にいれは、東京というと、すばらしく立派な団体ばかりに見えるものだ。そういう先入感が彼らにもあったにちがいない。その不安も、佐々木基之氏の助言で克服した。佐々木氏の彼らにたいする評価は、決してあやまってはいなかったのだ。
 こういう合唱団にしても、やはり、合唱団としての悩みはあるのだ。二年後の、第二回東京公演のあと、集まりがわるくなったりして、不振な状態だったこともある。今年などは、東京進出はダメかとおもわれた。しかし、そんな語がちらほら出はじめるころになると、どういうものか、期せずして盛りあがってくるのだそうだ。

特集 “野の花”のごとく (その5)

   増田青年の情熱(続)
 さて、話を山形にもどそう。
 当時の増田青年は、南高二年のとき、事情で一時群馬に転校しなければならなかった。送別のとき、コーラス部全員が駅まで送ってくれたものだ。そのとき駅頭での、いつとはなしにはじまったハーモニーの美しいひびきは、いまでも忘れることができない。
 転校さきの群馬では、コーラス部はあるにはあったが、彼をみたすようなものではなかった。教師は、そのうち増田青年に指揮をまかせっきりといった、悠長さかげんだった。近くの女子高校とも、合同で混声をやったが、彼は、このグループにたいして、山形で体験した森山先生の指導を用いた。
 これは、美しいハーモニーを作るには、もっとも理解しやすい、そして効果的な方法でもある″分離唱″というものなのだ。これを説明するには、音感教育で著名な佐々木基之氏のことを話さなけれはならない。また、この方法が、みちのくの一隅で実を結んだいきさつは、山形南高の森山三郎氏と佐々木氏との出合いの場からも話さなければならない。このことは、あとで述べよう。
 増田青年の、このときの分離唱の効果と体験は、あとになって、東混を生むきっかけとなったものでもあった。
 増田さんが芸大への進学を決心したのは、そのころのことだ。一生を音楽にゆだねようと決意したとき、彼は、じつとしていられなくなった。そのとき、彼の心に呼びかける声があった。彼には南高の音楽的な環境が、たまらなく恋しくなってきたのだ。彼は単身、ふたたび山形に舞いもどってきた。彼をそうさせたものに、南高の合唱と、森山先生の指導力と人柄とがあった。彼の高三のときだ。水を得た魚のように、彼の進学準備がはじまった。
 そして秋も暮れに近く、彼は上京して渡辺高之助氏に師事し、やがて翌年には芸大に入学したのだ。それから数年。芸大卒業も間近かくなったころ、このOB合唱団は、第一回の東京での演奏会をもったのだ。

特集 “野の花”のごとく (その4)

   増田青年の情熱
 増田さんは、東京混声の団員で、東混を作り育ててきた人のひとりだ。メールクヮルテットのひとたちや、指揮者田中信昭氏とも、芸大の同クラスで、東混を作るに当って、増田さんが技術面の分担を受けもった。
 彼の合唱への情熱は月並みなものではない。東混のなかでも、彼は目立たぬ立場であることを十分に知っていたし、何年も縁の下の忍耐にたえてきた。彼にあるのは、かっての体験からの強い自信と、東北人のねばり強さであろう。東混の今日の演奏は、彼の技術指導の努力も大いにカがあったといってもいいすぎではないだろう。話はついでにそれて恐縮だが、東京混声を支えてきたものは、発足当時からのメンバーの、見事なコンビによるものだともいえる気がする。増田さんの地味なねばりと自信。メンバーより五才年長だった田中さんの統率力と音楽のまとめ役。それにアンサンブルには情熱を傾けて悔いないほかの連中。もうひとりはマネージャーの松浦さんだ。彼もYMCAの合唱で、後述の佐々木基之氏とは無関係ではない。そういった組合わせが、東混の支えとして、いまもなお続けられているときく。

風林火山館(その2)

これは門の外からの写真です。そういえばこの門から騎馬がでてくるようなシーンがありましたね。
門
中にはいると、かなり大きな本殿があります。ボランティアのガイドさんが説明してくれました。「山本勘助が召し抱えられるシーンの撮影はここでした。」などというふうに、順に順に説明してくれます。
本殿
今回のドラマのヒロインで勝頼の母となる由布姫は、「今回は由布姫と名付けられました。『武田信玄』の時の原作者:新田次郎は湖衣姫と名付けました。男尊女卑で、当時は姫様の名前も定かではありません。今度ドラマに取り上げるときには、何という名前になるんでしょうねー。」なんていう説明でした。

風林火山館

今年のNHK大河ドラマは「風林火山」。そこで山梨県では少々フィーバー気味です。知らない間に甲府駅北口近くに○○櫓という目を引くものができています。八ヶ岳の麓では、県営牧場を提供して撮影セットが組まれたのですが、撮影終了後は「風林火山館」という名で見学できるようになりました。
先日、この「風林火山館」に行ってきました。十数年前の大河ドラマでは「武田信玄」がありましたが、このときのセットは実際に見学に行ってみると大変みすぼらしいものだったそうです。しかし、今年のセットはなかなか立派に作ってあり、それなりに楽しんで見学しました。
堀
信玄が城を持たず住まいにしていたという躑躅が崎館は今は武田神社となっていますが、撮影セットはこの躑躅が崎館をモデルにしたものだそうです。堀には水がためられ、立派な風情でした。