特集 “野の花”のごとく (その12)

満たされざる心(続)
 話はまたそれてしまった。前記の金富小学校で、佐々木氏がそれを実地で試みられたことはいうまでもない。そしてその効果に、佐々木氏自身が、目をみはったことでもあった。やがて、それは、全国の小学校音楽教育の研究発表会で公開されることになった。
 佐々木基之氏の音感教育の話をききに、全国から3500名の先生たちが集まった。そのときのこの3500名のなかに、山形から森山三郎氏がきていたのだ。森山氏は芸大の講習会が出張の目的だった。ところが芸大には一日だけ、残りの十日間は、この佐々木氏の音感教育の研究会に毎日通ったそうである。
 増田さんの高二のときの、森山先生の心境の変化は、このころのことだったのかもしれない。それ以後というものは、山形の森山氏と、十七年間の小学校教員を終えて音感教育にうちこむ佐々木基之氏との間に、強いきずながうまれたのだ。
 立派な教師が、正しい音楽教育に情熱を傾ければ、その下に育つ若い連中は、教師をとびこえて、どんどんのびていくものなのだ。森山氏の生活のなかにも、そのことを痛感させられることが多かったらしい。だから森山氏にとって、いや、彼の育てた山形南高OB合唱団にとって、東京の佐々木基之氏の存在は貴重なものだったにちがいない。佐々木氏は、一年に三、四回山形市に出向いて、直接指導に当るそうである。このOB合唱団は佐々木氏にとっても、きっと、わが子のように可愛いいのにちがいない。
 ほんとうにしあわせな合唱団だ。こんなめぐまれた環境に育つ合唱団は、東京にだって少ない。合唱団のメンバーは、このことを肝に路じ、佐々木氏や森山氏に感謝を惜しんではなるまい。また、自分たちをとりまく周囲の善意にたいしても、あまえたり、慢心を抱くようなことがあってはなるまい。
 佐々木基之氏は、合唱のあり方について、純正なハーモニーが人間の自然感覚であるはずなのに、パート練習やコールユープンゲンでドレミの練習を平均律のピアノをたたいてやるというのは、その自然感覚に逆行するものだ、という。そして、いかなる単音も、単音として孤立させず、和音のなかの音として感じて歌唱すれば、おのずと調和への意識が働き、音色は統一され、ハーモニーを作ればその純正なひびきは、うたう人の心に音楽的感動を引きださずにはおれないものだ、ともいう。その感動のあるところに、その曲のテンポも自然発生的にきまってくるものでもある。
 (佐々木氏のお宅に集まる十名の″みちのく″のコーラスは、雑な大合唱団よりは遠かに感動的であった。それは、ひとりのこらずみごとにハーモニーのなかにあり、そのハーモニーに、彼ら自身が感興を生み、自然と、強弱テンポが生じ、聞く者に伝わってくるのだった。技巧や虚こうのないホンモノの心にうたれてしまうのだ)
 また、合唱団のあり方について。-合唱のねうちは、大衆のものであるということ。ちょうど、誰でもが草野球を楽しむように、合唱の姿もそうあるべきだ。このあり方をレンゲ草にたとえるなら、コンクールの演奏は造花である。これを刺激にしなけれは合唱が育たないというのは、合唱の楽しみの本来のものや根本のことを忘れているか、さもなければ気づかないかのどちらかだ、という。

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