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合唱団の運営

大学合唱団はどこもそうなのだろうが、3年生が中心となって運営する。これは4年生は卒論で忙しくなってしまうためだろう。私たちの団体は、学生指揮者2名(3年と4年)、ソプラノ・アルト・テナー・バス各パートのパートリーダーとサブパートリーダーがおり、このメンバーを技術部門と呼んで音楽面での中核を担っていた。それとは別に運営部門があり、いわゆる団長に当たる理事を筆頭に副理事・庶務・会計・楽譜係などがあった。また、合唱団で年一回発行される機関誌「笛吹」と度々発行される小冊子の「和声」があり、このための編集委員という役もあった。つまるところ、3年生はほぼ全員何かの役に付かなければならないしくみになっていた。

合唱団の先生との窓口はもっぱら理事が担当していた。そして理事・副理事・学生指揮者は選挙で決めていた。佐々木先生を招聘するのも総会で決定したことだった。このように選挙によって中核の役員が決まることや、総会でさまざまな決定がなされることなどを先生は嫌っておられた。「国会のまねごとをして、私を呼ぶのに○年もかかった。」なんて、よくいわれたものだ。

レコード

 この演奏会(第1回東京公演)の録音をもとに初めてのレコードが製作され、自分たちのレコードをはじめて手にすることができた。レコードは少々エコーが過多であるとも思うが、なかなかのハーモニー、なかなかのできばえであった(これは私自身が入って唱っていることからくる、かなり控えめな表現です)。価格は2千円、貧乏学生にとってはちょっと勇気のいる金額であるがこの時ばかりは私も1枚購入した。金銭面のこともあるが、この頃の私たちにとってレコードに記録された音楽が日常の生活の中にあるのだから、特別購入する必要も感じなかった。だからその後も毎年作成されたレコードを私はほとんど購入しなかったし、多くの団員も同様であった。しかし、私の友人Kさんはこのレコードを10枚くらい購入して(家族や友人)に配ったとのことである。彼も決してゆとりのある学生生活ではなかったはずだが、当時の演奏に大きな価値を見いだしていたのだろう。


1stLP
初めてのレコードのジャケット

第1回東京公演

第1回の東京公演は1974年3月12日であった。

毎年のようにひらかれた東京公演だが、はじめて東京公演のはなしがあったときは驚きだった。田舎の合唱団が上京して演奏会を行うなど夢のような話である。東京公演はお金の面でも、移動・宿泊・会場のことなどマネジメントの面でも全て先生が負担され、私たちはただ行って唱えばいいという恵まれた演奏会だった。

私たちは前日に東京に向かい、高尾のユースホステルに宿泊した。翌日、全員で高尾山に登って散策し、ゆったりとした気分で京王線を一路会場である新宿の朝日生命ホールに向かった。古く壁もくすんで音響面でも心許ない地元の定期演奏会の会場と違い、きれいで音響も適度なホールでのうれしい演奏会だった。演奏会後は会場内でのレセプションがあり、夕飯代わりの小さいがしゃれたお弁当を持たせていただいて、その日のうちに電車に乗って帰ってきた。全てに至れり尽くせりで雲の上に乗ったような経験であった。

夕焼雲

真っ赤な空の 夕焼け雲よ
「カオ、カオカオ」と 蛙が鳴いた
すずしい道は もう日が暮れる
まだ、まだうすい お月が見える
みどりの谷の 花にもうつる
真っ赤な空の 夕焼け雲よ

このころの印象的な曲に「夕焼雲」がある。演奏会のプログラムにものったが、練習の中でも実によく歌った曲だ。テナーソロがはいるこの曲に、当時のテナーのパートリーダーがソロを唱った。声の細い決して声量のない方だったが、この曲の情感をたっぷり味わわせてくれた。この方はこの年で社会人となり、翌年からは声のきれいなバリトンがソロを担当するようになった。先生はこの曲のソロをバリトンに唱わせることにかなりのこだわりがあったようだ。本来テナーソロのこの曲にバリトンを当てた先生には、以前の記憶か何か相当な強い印象をもっておられたのだろう。しかし、わたしにとってのこの曲の情感は、この方のテナーソロと一緒に育っていった。この曲も私たちの合唱団が分離唱の合唱に向かってひた走った頃の忘れられない一曲だ。

分離唱合唱団はじめての定演 その2

 久しぶりにこの録音を聞いた。60分テープ2本のうち、1本目の両面及び2本目のA面がその録音であった。そして、B面には、本番を前にしたステージ上でのカデンツや数曲の合唱が入っていた。こういう意外なソースを発見すると、うれしくなってしまう。カデンツの録音もまたいいものだ(山形の森山先生はカデンツを、「世界で最も小さな名曲」といって指導したそうだ)。たぶん学生指揮者の主導で唱っていたのだろうが、1曲歌い終わると先生が二言三言指示され、そのあとみんなのざわめきとおしゃべりがはいる。一般的にはこんな録音を聞くのは苦痛でしかないのだろうが、その場にいたものにとっては場の雰囲気を丸ごと感じられて楽しいものだ。

分離唱合唱団はじめての定演

1973年12月1日の定期演奏会は、ちょうど第30回の節目に普通の合唱団から分離唱の合唱団に変身した記念すべき演奏会だった。当時合唱といえば邦人作曲家の合唱組曲を演奏することが多かったのだろうが、この時の曲目は讃美歌・外国や日本の小曲ばかりで、特に山田耕筰作品が多かった。そして、一番大きな曲はというとドヴォルザークの「家路」だった。個々に印象深い曲をあげたいところだが、プログラムのほとんど全てが先生の指導一年目の強い印象をもった曲ばかりだ。思いつくままにその曲目をあげてみよう。

「夕焼け雲」、「光のお宮」、「青蛙」、「燕」、「あわて床屋」
「すかんぽの咲く頃」、「雪の降る街を」、「すすき」
「背くらべ」、「待ちぼうけ」・・・・

これらの小曲を先生が一曲一曲紹介しながら演奏会がすすんだ。ステージの合間には先生の手記がアナウンスされ、アンコールもたくさん行った。

録音を趣味として、そのための機材を自分で所持している学生がいた。この時の演奏会の録音はその学生にお願いしたが、この学生もやがては入団し私たちの仲間に加わった。

31thプログラム

あとから入団した友人

 このころの団員は40人くらいだった。各パートのバランスもまあまあで恵まれた合唱団だった。2年3年と学年がすすんでから入団してくる学生は以外と少ない。そんな中でいつ頃かはっきりとした記憶がないが、先生の指導がすすんできた頃入団してきた友人がいる。入団の動機はというと、練習場(普通の2階の講義室の隅に古いアップライトピアノが置いてある)から数十m離れた屋外掲示板のあたりで(歌声というのではなく)ハーモニーの響きが聞こえてくるのだという(私たちの合唱の声量は決して大きくなかった、何せ発声練習などというものをしたことがないのである)。その響きに惹かれて入団したとのことであった。この友人の下宿に行くと、押入の端から端まで(約1.8m)ジャズやその他のLPレコードが並んでいた。私は、当時の学生でこんなにたくさんのLPを持っている人を初めて見た。このようなジャンルの音楽好きであった彼にとって、合唱団への入団は大転換であったことだろう。感性にすぐれたこの友人は、先生の音楽を感じ取って入団してきたのだ。そして私は後々、この友人からたくさんのことを学ばせてもらった。

大それたこと?

先生の指導が始まる前に退団してしまった先輩がいた。純粋な方で、自己の求めるものに照らし合わせて、その頃の合唱団に失望してしまったということのようだった。秋になってからこの先輩に練習の録音テープを聴いていただいたところ、驚いていた。「短期間によくこんなに変わった」ということらしい。中にいる人間にとっては、自分たちの変化などわからないものだ。私たちにとっては、そういう合唱をしていることがただの日常であったにすぎない。だからこの時初めて、私たちの合唱の客観的な評価を聞いた気がする。

録音の中にはモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」があり、流れてくる演奏に合わせて私が口ずさんだところ、この先輩はまた驚きの声をあげた。「アヴェ・ヴェルム・コルプスを編曲するなんて大それたこと、佐々木先生はそんなことまでするのか」ということだった。この先輩はバッハのカンタータとかその他宗教曲などのミュージックテープ(オープンリール)を買ってきては聴いているような方だった。私はただ与えられた曲、与えられた編曲を何も考えずに歌ってきただけだが、「音楽好きの人はそんなことを考えるのか」と、その頃の私は妙に感心してしまった。

手書きの楽譜

団の中には楽譜係がいた。市販されている楽譜については団員個々が購入すればいいのだが、そうでない楽譜は楽譜係が印刷してみんなに配布する。私が入団した頃の手製の楽譜はまだガリ版刷りだった。ガリ版を知っている人ももう少なくなってしまっただろう。ロウで繊維の隙間を埋めてしまった原紙を細かいヤスリの上に載せ、上から鉄筆で書くとその部分だけロウがとれる。わら半紙の上に枠に固定した原紙をあて、その上からインクをまんべんなく付けたローラーを程良く力を加えながら転がすと、鉄筆で書いた部分だけインクが通り抜け印刷ができる。今思えば原始的な印刷だ。鉄筆で強く書きすぎると破けてしまうし、弱すぎるとよく写らない。微妙な力加減が難しかった。私が入団した頃の楽譜はこうして印刷されたのだが、よくきれいに印刷されて見事なものだった。私は楽譜係を担当したことはないが、若干はガリ版で楽譜を起こしたことがある。楽譜のガリ版起こしは特に難しい、五線譜を定規でひいているとすぐにそこで原紙が切れてしまう。一度やってみると、楽譜係の人の苦労がよくわかった。

楽譜に限らず、総会の資料や機関誌など団で配布する様々な印刷物はガリ版で印刷されていたので、部室にはガリ版起こしのためのヤスリ・鉄筆・原紙、それから謄写版のセットがそろえられていた。

佐々木先生が指導にみえるようになって、先生は市販されていない先生独自の編曲を次々ともってきた。何しろ譜読みが早く、「ではこれをやってみよう」というような調子ですすむのだから、当時の楽譜係は大変だったろう。幸いこの年からは大学の事務室にオフセット印刷の新しい機械がはいり、合唱団にはこれを使わせてくれた。大学の入学式・卒業式には、儀式の中で学生歌や卒業送別の決まった歌があり、合唱団がこれを唱っていた。数人でピアノを取り囲み、2階の練習室から階段を下ろしてトラックに積み込む。体育館への設置と、また練習室に戻すことまで全部が男性団員の仕事である。このようなことから、合唱団にだけは印刷機の使用の許可が下りていたようだ。

先生の編曲は先生自身が五線譜に書いたものだが、なかなかきれいに書かれていて、手書きではあるが見やすい楽譜だった。また、印刷機が新しいこともあり、私たちは鮮明な楽譜を手にすることができた。当時の楽譜係の方は新しい印刷機を回しながらこれから唱う楽譜をいち早くながめ、心弾ませていたそうだ。

秋合宿

秋になると週一回の先生の指導も厳しさを増してきた。だからこの時期の印象は夏合宿の時のような明るいイメージではない。10月だったか11月だったか、多分2泊3日だったと記憶は定かではないが、そんな時期に秋合宿が行われた。もちろん最初から最後まで先生の指導で練習が行われた。会場は大学から10kmほど離れた勤労青年センターで、ここでは食事も食堂にまかせきり、炊事当番が練習を抜けるということもなく、短期間であったが練習に集中できた合宿だった。演奏会に向け、ここで一段と音楽が高められていったのだろう。

この合宿には、先輩が高価なカセットデッキを持ち込んで録音してくれた。このときの録音は、定期演奏会のプログラムと全く同じ順序に記録されている。演奏会からかなり前だったと思うのだが、すでに先生の頭の中にはプログラムができあがっていたようだ。