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第1回東京公演

第1回の東京公演は1974年3月12日であった。

毎年のようにひらかれた東京公演だが、はじめて東京公演のはなしがあったときは驚きだった。田舎の合唱団が上京して演奏会を行うなど夢のような話である。東京公演はお金の面でも、移動・宿泊・会場のことなどマネジメントの面でも全て先生が負担され、私たちはただ行って唱えばいいという恵まれた演奏会だった。

私たちは前日に東京に向かい、高尾のユースホステルに宿泊した。翌日、全員で高尾山に登って散策し、ゆったりとした気分で京王線を一路会場である新宿の朝日生命ホールに向かった。古く壁もくすんで音響面でも心許ない地元の定期演奏会の会場と違い、きれいで音響も適度なホールでのうれしい演奏会だった。演奏会後は会場内でのレセプションがあり、夕飯代わりの小さいがしゃれたお弁当を持たせていただいて、その日のうちに電車に乗って帰ってきた。全てに至れり尽くせりで雲の上に乗ったような経験であった。

イチリンソウ

 先週の自然観察会ではまだ開いていなかったイチリンソウだが、「一週間後には開くでしょう」とのことだった。午後ではあったが、もう一度そこにいってみた。案内の方の言葉通り二三輪、咲いていた。本当に道ばたに何気なく咲いている花だ。

夕焼雲

真っ赤な空の 夕焼け雲よ
「カオ、カオカオ」と 蛙が鳴いた
すずしい道は もう日が暮れる
まだ、まだうすい お月が見える
みどりの谷の 花にもうつる
真っ赤な空の 夕焼け雲よ

このころの印象的な曲に「夕焼雲」がある。演奏会のプログラムにものったが、練習の中でも実によく歌った曲だ。テナーソロがはいるこの曲に、当時のテナーのパートリーダーがソロを唱った。声の細い決して声量のない方だったが、この曲の情感をたっぷり味わわせてくれた。この方はこの年で社会人となり、翌年からは声のきれいなバリトンがソロを担当するようになった。先生はこの曲のソロをバリトンに唱わせることにかなりのこだわりがあったようだ。本来テナーソロのこの曲にバリトンを当てた先生には、以前の記憶か何か相当な強い印象をもっておられたのだろう。しかし、わたしにとってのこの曲の情感は、この方のテナーソロと一緒に育っていった。この曲も私たちの合唱団が分離唱の合唱に向かってひた走った頃の忘れられない一曲だ。

分離唱合唱団はじめての定演 その2

 久しぶりにこの録音を聞いた。60分テープ2本のうち、1本目の両面及び2本目のA面がその録音であった。そして、B面には、本番を前にしたステージ上でのカデンツや数曲の合唱が入っていた。こういう意外なソースを発見すると、うれしくなってしまう。カデンツの録音もまたいいものだ(山形の森山先生はカデンツを、「世界で最も小さな名曲」といって指導したそうだ)。たぶん学生指揮者の主導で唱っていたのだろうが、1曲歌い終わると先生が二言三言指示され、そのあとみんなのざわめきとおしゃべりがはいる。一般的にはこんな録音を聞くのは苦痛でしかないのだろうが、その場にいたものにとっては場の雰囲気を丸ごと感じられて楽しいものだ。

分離唱合唱団はじめての定演

1973年12月1日の定期演奏会は、ちょうど第30回の節目に普通の合唱団から分離唱の合唱団に変身した記念すべき演奏会だった。当時合唱といえば邦人作曲家の合唱組曲を演奏することが多かったのだろうが、この時の曲目は讃美歌・外国や日本の小曲ばかりで、特に山田耕筰作品が多かった。そして、一番大きな曲はというとドヴォルザークの「家路」だった。個々に印象深い曲をあげたいところだが、プログラムのほとんど全てが先生の指導一年目の強い印象をもった曲ばかりだ。思いつくままにその曲目をあげてみよう。

「夕焼け雲」、「光のお宮」、「青蛙」、「燕」、「あわて床屋」
「すかんぽの咲く頃」、「雪の降る街を」、「すすき」
「背くらべ」、「待ちぼうけ」・・・・

これらの小曲を先生が一曲一曲紹介しながら演奏会がすすんだ。ステージの合間には先生の手記がアナウンスされ、アンコールもたくさん行った。

録音を趣味として、そのための機材を自分で所持している学生がいた。この時の演奏会の録音はその学生にお願いしたが、この学生もやがては入団し私たちの仲間に加わった。

31thプログラム

カタクリ

 4月8日、自然観察会に参加した。私の参加しているグループには野草に詳しい人が何人かおり、その人の案内で駐車場所から徒歩で1時間半くらい散策した。この日は午後であり、また天候の影響があって開いていなかったカタクリであったが、「明日の朝行ってみるといいよ。」ということばで翌日同じ所を訪ねた。言われたとおり見事に開いていた。桜もいいが、こんな自然の花はまた一層美しい。
 案内をしてくれた人は本当に植物が好きだ。説明も本当に楽しそうにしてくれる。そして観察のためのマナーが当然のことのように身に付いている。田圃の土手を歩くとき、やむを得ないとき以外は絶対に田圃には足を踏み入れない。目的の植物の群生しているところにはなおのことだ。愛好家が写真を撮ろうとして三脚を立て、その場所を荒らしていると説明してくれた。この人はもう「写真を撮りたいとは思わない、見るだけでいい」そうだ。

あとから入団した友人

 このころの団員は40人くらいだった。各パートのバランスもまあまあで恵まれた合唱団だった。2年3年と学年がすすんでから入団してくる学生は以外と少ない。そんな中でいつ頃かはっきりとした記憶がないが、先生の指導がすすんできた頃入団してきた友人がいる。入団の動機はというと、練習場(普通の2階の講義室の隅に古いアップライトピアノが置いてある)から数十m離れた屋外掲示板のあたりで(歌声というのではなく)ハーモニーの響きが聞こえてくるのだという(私たちの合唱の声量は決して大きくなかった、何せ発声練習などというものをしたことがないのである)。その響きに惹かれて入団したとのことであった。この友人の下宿に行くと、押入の端から端まで(約1.8m)ジャズやその他のLPレコードが並んでいた。私は、当時の学生でこんなにたくさんのLPを持っている人を初めて見た。このようなジャンルの音楽好きであった彼にとって、合唱団への入団は大転換であったことだろう。感性にすぐれたこの友人は、先生の音楽を感じ取って入団してきたのだ。そして私は後々、この友人からたくさんのことを学ばせてもらった。

大それたこと?

先生の指導が始まる前に退団してしまった先輩がいた。純粋な方で、自己の求めるものに照らし合わせて、その頃の合唱団に失望してしまったということのようだった。秋になってからこの先輩に練習の録音テープを聴いていただいたところ、驚いていた。「短期間によくこんなに変わった」ということらしい。中にいる人間にとっては、自分たちの変化などわからないものだ。私たちにとっては、そういう合唱をしていることがただの日常であったにすぎない。だからこの時初めて、私たちの合唱の客観的な評価を聞いた気がする。

録音の中にはモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」があり、流れてくる演奏に合わせて私が口ずさんだところ、この先輩はまた驚きの声をあげた。「アヴェ・ヴェルム・コルプスを編曲するなんて大それたこと、佐々木先生はそんなことまでするのか」ということだった。この先輩はバッハのカンタータとかその他宗教曲などのミュージックテープ(オープンリール)を買ってきては聴いているような方だった。私はただ与えられた曲、与えられた編曲を何も考えずに歌ってきただけだが、「音楽好きの人はそんなことを考えるのか」と、その頃の私は妙に感心してしまった。

王仁塚の桜

この桜、なかなかの巨木だ。知人の話では、昨年の愛知万博で、NHK館のデジタルハイビジョン映像で日本の四季を紹介している中に、この桜が映し出されていたという。近くにこんな桜があったんだと驚いたそうだ。
「こんな桜が近くにあるらしい。」
「それなら花の咲いている時期に、その方面を車で走ってみれば見つかるだろう。」
と言うわけで、昨日の仕事が終わった夕方さがしに行ってみた。すぐに見つかった。田圃に囲まれた塚があり、その上に巨木が立っている。盆地を見下ろす眺めのいいところに一本たっているこの桜は見事だ。「王仁(わに)塚の桜」という名前も初めて知った。