カテゴリー別アーカイブ: 音楽:分離唱合唱資料

音感教育の美しい調べ 再び東京で発表会(その3)

○・・・佐々木氏の音感教育はいままで音符だけに頼った音感教育を改革して、耳を通じてハーモニーから自然に音楽のあり方をつかんで行こうとするもので、すでに札幌、仙台、広島、鹿児島、埼玉などでこのやり方が取り上げられているが、山南OBはその中でも代表的な合唱団であり、この教育を受けた団員の中にはピアノの即興演奏など秀れたセンスをもつものも少なくない。その意味で中央楽壇に投ずる影響は大きいといわれている。
再び東京で発表会
【写真はステージ上の山南OB合唱団】
以上、昭和32年10月17日
読売新聞山形読売面記事

音感教育の美しい調べ 再び東京で発表会(その2)

 ○・・・29年10月のある夜たまたま山形市を訪れた佐々木基之氏が、七日町大通りを合唱して通る一群のグループに話しかけたのがきっかけで、森山教諭を援助して同合唱団に直接音感教育を仕込むことになった。
 ○・・・その後同合唱団は30年7月山形市中央公民館開きの第1回公演や、同合唱団の創設に尽力した同市八日町の医師故東海林耕祐氏の追悼音楽会などで次第に市民の人気を得てきた。同年11月佐々木氏の所属する紫翠会から招かれて東京女子大、日本青年館で発表、圧倒的な好評を得た。その後当時のファンから第2回東京公演を熱望され、同校同窓会の援助でふたたび実現するもの。
 ○・・・2年の間に同合唱団の声価はさらに高まり、NHK交響楽団常任指揮者ロイブナー、声楽家ベッシュ夫妻は「東京公演には必ず招待してほしい」と佐々木氏に申し入れているほか、音楽評論家宮沢縦一氏は「東京には技術ばかりやかましくて、楽しくない合唱が多過ぎる。山南OBのような聞いていて響きの美しく楽しい合唱団は少ない」と手紙を寄せるなど各方面から期待されている。

音感教育の美しい調べ 再び東京で発表会(その1)

音感教育の美しい調べ
再び東京で発表会
声価上がる山南OB合唱団

“森の都”山形の合唱団が、都会では聞かれない美しい響きを認められ、ふたたび東京で公演する。

○・・・それは山形南高OB合唱団(委員長山形市七日町電器商調所昂治さん(28)団員25人)で、とくにわが国の“音感教育”の創始者佐々木基之(旧名幸徳)氏がタクトを振り、来月5日山形市中央公民館で市民に発表したのち、16日午後6時半から東京青山の日本青年館ホールのヒノキ舞台に立つことになっているが“音感教育”による秀れたハーモニーを地方で育てた合唱団として中央の楽壇から注目されている。

○・・・山形南高OB合唱団は26年4月同校教諭森山三郎氏の指導で第1、第2回卒業生の余目高教諭石沢行夫(25)山形市教委勤務安達良介(26)庄内交通社員砂山弘(25)ナショナル電器社員中村博(25)山形トヨタ自動車会社員田島義久(25)さんの5人によって創設された。団員は会社員、公務員、教員、粉屋、警察官、大学生などいろいろで、今日まで毎週水曜日の夜一回も欠かさない熱心な練習を続けてきた。

昭和32年10月17日
読売新聞山形読売面記事

==みなさんのマイク==

==みなさんのマイク==
山形南高OB合唱団
YBC(午後10:20)今晩は都会では聞かれない美しい響きを認められ、来月再び東京青山の日本青年会館のヒノキ舞台に立つ山形南高OB合唱団をむかえて男声合唱を六曲送る。
みなさんのマイク
山形南高OB合唱団は26年4月同校教諭森山三郎氏の指導の下に第1回卒業生で結成され昭和30年7月山形市公民館で第1回発表会を11月東京公演を行った。団員は会社員、公務員、教員、粉屋、電具店、警察官、大学生など25人。今日まで毎週土曜日母校の音楽室に集まって熱心な練習をつづけて来た。来る11月5日山形で公演、ついで11月16日第2回東京公演をする。
曲目は『兵士の歌』『十二人の盗賊』『アシエームド・オブ・ジェーザス』他。
合唱指揮は田島義久さん。
(写真は南高OB合唱団)
以上、昭和32年10月27日の新聞記事
切り抜きのため、新聞社不詳です。
(40.0k)

特集の掲載を終えて

 前回のエントリーで、「特集:野の花のごとくに」の文章のアップを終えました。細切れで読みにくかったかもしれませんが、このページ左欄の
   カテゴリー
     音楽:分離唱合唱資料
をクリックすると、この特集を続けて読むことができます。(ただし古い記事が下ですから、まず一番下を出して順に上へと読み進めてください。)最後に記載されている
      「入場料150円」
なんてところに時代を感じますね。
 この資料を読みやすくするためにはホームページの方が良いのかもしれませんね。そろそろ挑戦してみようかな・・・・。
 ところで、項目「″野の花″のごとく……」の中に、この合唱団は「50曲ほどの暗譜レパートリーがあったという」との記述があります。このことが一般の合唱の世界でどれほどの意味があるのか知りませんが、私たちの学生時代もア・カペラの小曲ばかりたぶん同じくらいの曲数のレパートリーがあったのではないでしょうか。山形南高OBの場合は、自前で作成したガリ版刷りの100曲以上もの曲集があり、固定メンバーで歌い続けたことから、この50曲というのは控えめな数値だったのではないでしょうか。響きの中で歌うのですから、特別「暗譜」なんて意識は持たないですよね。振り返ってみると、「覚える」というよりは唱っていて「自然に身についていく」といったものでしたね。

特集 “野の花”のごとく (その13)

満たされざる心(続々)
 最後に、この佐々木基之氏の話をきいてある指揮者がさっそく実験を試みた結果をお知らせしておこう。対象は、まだ発足して一年もたたぬアマチュア15名の混声グループである。年令も若いので音色はきたない。ドレミ唱法も困難をきわめるほどの連中だ。つまり、合唱グループとしては最低クラスとおもっていただけばよい。その人たちに、分離唱と三声を試みたわけだ。
 最初の分離唱でCEGの和音をピアノで断続しながら、その中のE音を発声させた。指揮者がE音をうたって導入するにもかかわらず、外声のCやGがとびだす始末。それでも数回ののち、全員がE音を示した。息をつかせて「エー」と長くのぼさせた音は、楽器の音を消したとたん、全員が、すっかりウナリのとれた二本のE音となって、残ったのだ。気をよくした指揮者は、つぎにG音、C音と、時間をかけて試みた。結果は、それぞれに、それは美しいユニゾンを生んだのだ。単音でやったユニゾンとはくらべものにならないものだった。このとき指揮者がおもったことは、単音指導の場合、それが強制された音であるのにたいし、この和音による方法だと、彼ら自身で作りだしたものだといえる、ことであった。この現象には、指揮者よりもうたっている連中のほうがよろこんだものだ。
 つぎは三声唱をするために、メンバーを男女別に三組に分け、もう一度さきはどの分離唱をやって、それぞれの分担を確かめておいて、再びピアノでCEGをたたいた。その余頭を十分に確かめさせて、これにとけこませたのだ。これも反復くりかえさせた。そして、断続的にたたくピアノの手を中止してみた。息をついで長くのばした三和音は六声部のハーモニーとなってみごとにひびいた。
 この方法は、メンバーひとりひとりが″作る″という興味と、簡単さがあるようだ。もちろん、一回の試みだけで、うたう曲がすべて美しくハーモニーするようになるとはいえない。しかし一回よりは二回と、彼らの合唱する音にたいし、そしてそのパートのうたいかたのなかに、その効果が目にみえて感じられるのが不思議だったという。十分に予想できる効果については、まず音程がよくなったこと。我流の声でなく、注文をつけずとも音色を考えながらうたっていること。あとのことは、これからさきの実験の結果で、どのよぅな効果があらわれるか、きわめて興味がもてる。佐々木氏の話では、三カ月から半年のうちには、すっかり変わってくるそうだ。
 山形南校OB合唱団のみなさん、どうもありがとう。そして、東京演奏会を開く十二月十一日を期待しています。    (M)
    最高のハーモニー
           優れた音楽性
  -みちのくに育った合唱を聴く夕-
     山形南高OB合唱団
   発足十周年記念東京公演
     指揮 佐々木基之
     曲目
      ・イタリアの山の歌 ・稗搗節
      ・親方と弟子    ・五つ木の子守歌
      ・やさしき愛の歌  ・夏の思い出
             他20数曲
     主催 紫翠会   後援 合唱界
     12月11日(月)P.M.6:30
     日本青年館
     入場料150円
     都内各プレイガイドにて前売中

特集 “野の花”のごとく (その12)

満たされざる心(続)
 話はまたそれてしまった。前記の金富小学校で、佐々木氏がそれを実地で試みられたことはいうまでもない。そしてその効果に、佐々木氏自身が、目をみはったことでもあった。やがて、それは、全国の小学校音楽教育の研究発表会で公開されることになった。
 佐々木基之氏の音感教育の話をききに、全国から3500名の先生たちが集まった。そのときのこの3500名のなかに、山形から森山三郎氏がきていたのだ。森山氏は芸大の講習会が出張の目的だった。ところが芸大には一日だけ、残りの十日間は、この佐々木氏の音感教育の研究会に毎日通ったそうである。
 増田さんの高二のときの、森山先生の心境の変化は、このころのことだったのかもしれない。それ以後というものは、山形の森山氏と、十七年間の小学校教員を終えて音感教育にうちこむ佐々木基之氏との間に、強いきずながうまれたのだ。
 立派な教師が、正しい音楽教育に情熱を傾ければ、その下に育つ若い連中は、教師をとびこえて、どんどんのびていくものなのだ。森山氏の生活のなかにも、そのことを痛感させられることが多かったらしい。だから森山氏にとって、いや、彼の育てた山形南高OB合唱団にとって、東京の佐々木基之氏の存在は貴重なものだったにちがいない。佐々木氏は、一年に三、四回山形市に出向いて、直接指導に当るそうである。このOB合唱団は佐々木氏にとっても、きっと、わが子のように可愛いいのにちがいない。
 ほんとうにしあわせな合唱団だ。こんなめぐまれた環境に育つ合唱団は、東京にだって少ない。合唱団のメンバーは、このことを肝に路じ、佐々木氏や森山氏に感謝を惜しんではなるまい。また、自分たちをとりまく周囲の善意にたいしても、あまえたり、慢心を抱くようなことがあってはなるまい。
 佐々木基之氏は、合唱のあり方について、純正なハーモニーが人間の自然感覚であるはずなのに、パート練習やコールユープンゲンでドレミの練習を平均律のピアノをたたいてやるというのは、その自然感覚に逆行するものだ、という。そして、いかなる単音も、単音として孤立させず、和音のなかの音として感じて歌唱すれば、おのずと調和への意識が働き、音色は統一され、ハーモニーを作ればその純正なひびきは、うたう人の心に音楽的感動を引きださずにはおれないものだ、ともいう。その感動のあるところに、その曲のテンポも自然発生的にきまってくるものでもある。
 (佐々木氏のお宅に集まる十名の″みちのく″のコーラスは、雑な大合唱団よりは遠かに感動的であった。それは、ひとりのこらずみごとにハーモニーのなかにあり、そのハーモニーに、彼ら自身が感興を生み、自然と、強弱テンポが生じ、聞く者に伝わってくるのだった。技巧や虚こうのないホンモノの心にうたれてしまうのだ)
 また、合唱団のあり方について。-合唱のねうちは、大衆のものであるということ。ちょうど、誰でもが草野球を楽しむように、合唱の姿もそうあるべきだ。このあり方をレンゲ草にたとえるなら、コンクールの演奏は造花である。これを刺激にしなけれは合唱が育たないというのは、合唱の楽しみの本来のものや根本のことを忘れているか、さもなければ気づかないかのどちらかだ、という。

特集 “野の花”のごとく (その11)

 山形南高OB合唱団についての特集記事、このところさぼってしまいました。最終章です。「冒頭に25年前のはなし」とありますが、この雑誌が発行されたのが1961年。そこから25年前ですから、もう3/4世紀ちかくも前の話になりますね。
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   満たされざる心
 むかしむかしの話だ。25年もまえの話。
 東京音楽学校(いまの芸大)を卒後の佐々木基之氏は、東京の小学校(文京区金富小学校)に奉職した。若い佐々木氏の心のなかには、当時の音楽教育にたいして、決して満たされていたわけではない。いや、むしろ、何かが、根本的ななにかに欠けているとする、激しい不満があったものだ。
 音楽教育に欠けているもの、それは何か。それを満すには方法がいる。それを果すにはどうすれはよいか。佐々木氏の苦悩は、周囲からは、変わった目でみられたものだという。何もしなくてもすむのが、教師という職業といったら怒られるかもしれないが、ささやかなわたしの経験からも、何人かの、毒にも薬にもならぬ連中がいるものだということは否定できないようだ。また逆に、やりだせば限りないひろがりをもつ、貴い職業だということも知っている。佐々木氏の態度が典型的な教師のものでなかったのかもしれない。とにかく、佐々木氏の頭の中は、この何かを求めることで、いっばいだったのだ。
 そんなとき、音楽学校の同輩で友人でもあった園田清秀氏(ピアノの高弘氏の父君)の宅を訪ねたことがあった。たまたま、そのレッスンの場にいあわすことになった佐々木氏はレッスンをきいているうち、ハッとあるひらめきを感じた。いままでの苦悩が、いちどに発散するような気持だった。そしてそのあとに、それを方法として、一刻もはやく実践しなければいられない気持にかられたのだ。
 こうして、佐々木氏の音感教育は、佐々木氏の心のなかに、はっきりと形をととのえてあらわれたのだ。その一つの方法として、分離唱、三声唱、分割唱がある。
 分割唱の解明がおくれたが、これは分離唱の変型といったもので、T・S・Dの和音を、ききわけるところから出発し、つぎに、それぞれの三和音を分散的に、C、E、G。C、F、A。H、D、G、というようにスタカートで反復してうたう。この効果は、和音感を学ぶと同時に、リズムの訓練となる。分離唱や三声唱は、増田邦明さんの話のところでも書いたがこれらの方法こそ、百聞一見にしかずで心ある人は、東混なり佐々木氏の宅を訪ねて見せていただくとよい。ぜひ、このことをおすすめする。かくいうわたしも、この原稿の取材で、すばらしい収かくをえたのであった。そしてこの方法が、なんとまた目にみえて効果を生むものであるかも、その後二週間の、あるアマチュア合唱での実験で実証されたのだ。
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特集 “野の花”のごとく (その10)

   「聞いてきいて・・・・・・」
 増田さんが高二のころだったか、森山先生の担当する音楽の授業が、急にようすがいままでとはちがったものになったことがあった。それからである。森山先生の「聞いてきいて-」がはじまったのは。
 森山三郎氏という人は、分離唱への情熱のカタマリみたいな人だということである。南高OBの合唱が美しく育ったというのも、森山氏の指導力と人柄によるものであった。
 もっとこまかくいうと、前に紹介した田島義久さんの力も彼らを育てるのに大きい力となっているのだ。佐々木氏も増田さんも、この田島さんを、すはらしい音楽的な耳のもちぬしだ、と評する。この田島さんは山形市のトヨタ自動車に勤めるかたわら、森山先生といっしょに、OBの育成指導にあたっている人だ。
 さて、森山先生には音楽教育者としての、強い信条がある。
 -情操教育のなんのと音楽が引きあいにだされるが、情操教育のために音楽を手段にするというのは、話が逆である。正しい音楽教育が正しく行なわれて、はじめて真の情操が育ちうるものだ、ということだ。
 だから、教育者としての森山氏は、正しいとおもう音楽教育に関しては、積極的に行動に移した。佐々木基之氏との出合い。その後の教室での、森山氏の心境の変化。それらはこういう森山氏の情熱の端的なあらわれの一例でもあろう。
 山形南高OB合唱団の生いたちを物語るには、この二人の出合いも決して無関係なことではなさそうだ。なぜといって、この出合いがあったればこそ、みちのくの彼方に、かくも美しい野の花が開く結果にもなったのだから。

特集 “野の花”のごとく (その9)

   東混での成果(続)
 その分離唱のつぎに、三声唱というのがある。これは、それぞれの組をさらに三分してCをうたう組、Eを、Gを、というふうに分けておいて、再び、ピアノの和音により、それぞれが、分担の音をそれにとけこませれはよい。ピアノの振動を止める。すると、残された人声は、CEGの長三和音の純正なひびきを美しく残す。
 もちろん、CFA、HDGも、同様な方法で行なう。東混ではカデンツとして、CEG→CFA→HDG→CEGというように行なっているそうだ。
 他の調に行くときは、そのトニックから、同様にはじめればよい。それも、下属調(FAC、でなく、C調と関連させるためにCFAからはじめるらしい)から属調(GHD。これも同様に、C調の関係調として、HDGの転回形をトニックにするそうだ)
 分離唱も、EGCとか、GCEとかの転回形でも行なう。三声唱の発音は、アー、とか、ヤーなどでやると効果的だそうだ。また、声部を入れかえてやってもみるという。たとえは、ベースをテナーと入れかえてみる。すると音の和声的な配置が自覚できることにもなる。
 最後に、コラールブックから、簡単なコラールの練習。原語だったり、母音だったりでうたい、音量のバランスや音色から、全体の流れやひびきを実感させるのだそうだ。
 以上の練習は、毎週一回だけ行なっている。佐々木氏の門を再びたたいた増田さんには、東混をさらに一層美しくしようとする情熱もうかがえるのだ。
 佐々木氏も話していたが、この方法は、なまじか譜の読める人のほうが時間がかかるそうだ。階名唱のパート練習や、コールユプンゲンも、ハーモニーを作るには適したやり方でないとは、増田さんも話していた。
 ついでながら、三年まえ結婚した増田邦明さんの奥様も、東混のソプラノで、夫婦むつまじく歩きまわっているときいた。増田さん夫婦にとって、合唱のなかに生活がある、といった毎日であるらしい。