カテゴリー別アーカイブ: 食・農

日本の農はどこへ向かうのか

アメリカに代表されるような広大な土地に単一作物を育て、大型の農業機械で耕し、ヘリコプターで農薬を散布する、こんな農業が健全な生命を育てているでしょうか。大豆については遺伝子組み換えのものが全体の半分を超えたといいますが、遺伝子組み換え作物が健全な生命といえるでしょうか。そう考えると、日本の農業はアメリカ型とでもいうような大型化した農業を目指さなくてもよいと思うのです。規模が小さく、単価は高くとも、より自然に近くより健全な作物の生産を目指す、そんな方向性をもっていただきたいと私は思うのです。
ですから、この狭い日本でアメリカ型の農業に対抗し負けない大規模農家を目標としないことにしてはどうでしょうか。自然豊かな日本ではむしろ、「自然とともに共生する」ような農業を目指すべきだと思うのです。廃棄物を減らすための「3R」運動というのがあります。できることならリデュース(排出抑制)、それがだめならリユース(再使用)、それがだめならリサイクル(再生利用)というのがありますね。農業についても同じように理想をいうなら自然農、しかしそれがだめならできるだけ有機農業、それも難しいのならできるだけ減農薬で、とこういうふうにできるだけ健全な農を目指してもらいたいと思うのです。
もちろん価格的には輸入食材と対等にやっていくのは無理だと思うのです。だから啓蒙や教育が必要だと思うのです。
    ・添加物は無いにこしたことはない
    ・冷蔵庫のお世話にならず、新鮮なものを食べることの大切さ
    ・地産地消の大切さ
    ・遠距離の輸入に必要となるポストハーベストのこと
    ・遺伝子組み換えってどういう事、何が心配?
等々、必要なことはいっぱいあると思うのです。食というものを考える、そんな教育も必要ではないでしょうか。見た目や価格競争に踊らされない、健全な農業を支える消費者を育てることも大きなテーマだと思うのです。
 こんな風に「きちんとした方向性をもって国としての舵取りをしてもらえるといいな」、と思うのは素人考えが過ぎるのでしょうか。
(24.5k CT)

ポスターに関連して

 「米の作りすぎは、もったいない」ポスターに関連して、私自身の考えがどうなのかもう少し整理してみたいと思います。
 私たちの食が「生命を食べる」ことだとすると、
        「農は健全な生命を育てること」
        「農業は健全な生命を育てる仕事」
ということになります。生命を育てている農業に価格競争はいかがなものでしょうか。健全に育てられた生命に価格競争を求めるのはおかしいと思うのです。「できることなら自分が食べるものは自分で育てたい」、そう思うのが自然ではないですかね。
 「自然農学びの会」に行ってはなしを聞いていると、はじめ野菜作りから始めたとしても、行き着くところは米の生産(稲作)にあるように感じます。主食を自分で生産してこそ・・・・、ということなのでしょうね。確かに主食である米を自分の手で納得のいくようにつくる、このことこそ大きな目標であると思います。
 しかし、年々の稲作の減反がすすみ、販売せず自給のみが目的の家庭にも減反の割当がくると聞きます。「自分たちの食べる米を生産するだけの土地があるのにそれだけ作らせてもらえない」、これは当事者としては納得のいかないことになることでしょう。「米を生産し供給してくれる農家を守るのか、それとも自給する小規模農家を守るのか」という選択になってしまうのでしょうか。日本の最近の農業政策は、海外で生産する安い農産物に対抗するには大規模農家を奨励し、競争力の大きな農家が生き残る手助けをするということのように思えるのです。

「生命を食す」

 食品添加物、ポストハーベストなどが施された食品はできることなら摂取したくありません。これらのものが私たち人間の健康にとって決して良くないだろう事は容易に想像できます。私もこんなふうには考えていたのですが、もうどのくらい前になるのでしょうか、クローン羊ドリー誕生のニュースが世の中を駆けめぐりました。クローン羊の延長線上には当然クローン牛があります。クローンの研究は人間の口に入る食肉がターゲットであることは間違いありません。私の心の中にはそういったクローン牛を受け入れない感覚があります。しかし、健康で肉質もよい牛のクローン牛を生産したとしたら、それを食したとしたら、人間は何かまずいことがあるのでしょうか。私がクローン技術を拒絶する根拠となるものはあるのだろうか、ただ観念的に拒絶しているだけなのだろうか、とそんなことを考え始めたのです。
 そうしてたどり着いた考えが、前回書いた「人間は生命を食べているのだ」ということでした。クローン牛がいくら健康な牛のクローンであって病理学的にも栄養学的にも問題ないとしても、おかしな生命の誕生過程を経てきた生命はとても健全な生命とはいえないと思うのです。
 私たちの食が「生命を食べる」ことだと考えることは重要なことだと思うのです。食品添加物の何が有害、何が無害なんていう知識は本当は必要なのでしょうか。そういう知識はなくとも、この「生命を食べる、健全な生命を」と考えることで自ずと私たちの食が正しい方向に向かっていくことになると思うのです。
(24.0k CT)

人間は何を食べて生きている?

     「私たち人間は何を食べて生きているんでしょうか?」
     「・・・・・。」
     「生命を食べて生きているんですよ。」
     「肉・魚・米・野菜、すべて生命です。醤油や豆腐はもとは大豆ですよ。
        ポテトチップスはジャガイモ、とんがりコーンはとうもろこし、・・・・。」
     「・・・・・。」
     「健全な生命を食して、健全な生命が得られるんだよ。」

ポスター「米の作りすぎは、もったいない」

「米の作りすぎは、もったいない」、こんな表題のポスターを東北農政局が3万枚作成して配布したのに対し反発が出ている。そんな記事を昨日目にしました。記事の内容は以下の通りです。

***************************************************************
米もったいない
東北農政局が作った「米の作りすぎは、もったいない!」「米の過剰作付けは、資源のムダづかい」というポスターに対し、地元の農家が「一生懸命米作りをしている農家の誇りを逆なでしている」と激しく反発。東北6県の農家約6000戸でつくる東北農業農民団体連絡協議会が25日、同局に文書で抗議するとともにポスターの回収を求めた。

「米の生産調整」への理解を深めてもらおうと局内で文言などを検討し、3万枚作製。今月から東北地方の農協などに張り出された。「MOTTAINAI」という文言付きで、「麦・大豆等へ転作し、自給率を向上」「限られた水田を有効利用することが、国民共通の利益」などと呼び掛けている。

抗議文は「過剰なのは輸入米で、外米に血税をつぎ込むことこそムダづかい」と指摘。連絡協議会の佐藤長右衛門会長は「高齢化が進む農村では、米作りを続けることが心の支え。カラー印刷で3万枚作成する金があれば、もっと他の施策に使うべきだ」と話した。

同局は「米価下落で生産調整が緊急の課題。決意の表れとしてインパクトのある言葉を選んだ。誇りを傷つける意図はない」とし、ポスター撤去などの予定はないという。

***************************************************************

日本の食糧自給率は約40%、これは先進国の中でも際だって低い数字です。その中で米だけが自給率に関しては優等生、自給率95%、直接食べる米については100%だそうです。なおもいうなら米の消費が減少して米あまり傾向にあり、米の需給状況からいったら国は減反政策を進めなければならない状況にあるようです。輸入した米は直接私たちの口にはいることはなく、加工米になったり、貯蔵米、そして海外への食料援助になったりしているそうです。そこが「外米に血税をつぎ込むことこそムダづかい」といわれる所以でしょうが、だからといって税金を無駄に使って国が米農家をいじめているといいうわけでもなさそうです。国際的なおつきあいで米も輸入しなければならない、日本の米作りも守りたい、その狭間のぎりぎりの選択として今の輸入があるようです。

しかし、このように日本の農政が日本の米農家を守るために動いているのだとしても、今回のポスターはいただけません。「もったいない」はなかなかよい時の言葉ではありますが、「田んぼで米を作るのがもったいない」としてしまったら、田んぼの米作りが廃棄物と同列に扱われているようにも思えます。今はやりの言葉を使えばいいというものではない、米作りへの思いを察することのできない方が選んでしまったキャッチフレーズという気がしてなりません。(続く)

「きっぽし」考(その2)

 子どもの頃、きっぽしはサツマイモを蒸かして薄く切り、養蚕用のかごの上に並べて干していました。冬の寒い中長い間干しておくと、やがてこの芋が美味しそうにこうがふいて白くなっていきます。しかしそういう風に仕上がるまで子どもは待てないのです。毎日一つ食べては、空いた場所がわからないように残った芋を均等に並べ替えます。こうすると1日やそこいらでは減っていることはほとんどわからないのですが、毎日これをやっていると明らかに減っているのがわかります。白く美味しくなった頃にはすっかり量が減っていて、やがてそのきっぽしは食べ尽くされなくなってしまいます。
 こういう経験の中で思い返すと、私たちの意識の中にきっぽしの消費期限なんて考えられませんでした。事情が許すだけの量をつくり、それを食べてしまえば終わり。食べ残してしまうなんて考えられないことなのです。しかも、もし古くなってしまったらその品質は自分の目で見て、自分で触って、またにおいを嗅いで食べられるかどうか判断したことでしょう。消費期限なんていうように他人の判断に頼らなくても自分で判断できる、そんなものだったんですね。大量に作って販売する、そのためには包装もする。そうすると直接触ったりにおいを嗅いだりできません。だから他人の判断基準が必要になるのでしょうかね。だからといって必要以上に消費期限を短くする要求が出てくるのは、どう見てもおかしいですね。
 これも食品をつくる者と食べる者が離れてしまったことが原因なのかもしれませんね。

「きっぽし」考

しばらく前のNHKクローズアップ現代では食品の消費期限やその偽装問題を扱っていました。

私たちの地域では切り干し芋のことを「きっぽし」と呼びます。番組の中で紹介されたのですが、このきっぽしの返品が非常に多いのだそうです。返品されたものを新しいものと混ぜて再包装し出荷していたということからの切り込みでした。小売店から製造会社への返品があるわけですが、小売店(スーパーなど)からの要望は「消費期限をもっと短く」というものだそうです。メーカーではいろいろな条件を勘案して9ヶ月は安全、それを短めにして消費期限は6ヶ月と表示して出荷しているのだそうです。小売りからの要望はこの消費期限の「6ヶ月を3ヶ月にしろ」というものだそうです。そしてその理由は「きっぽしは日が経つと白くなってしまう、それを消費者が嫌うので」。
きっぽし2
我が家ではそれを聞いて思わず「エーッ!」といってしまいました。きっぽしというのは時間がたつと表面に白く粉がのってきます。私たちの地域ではこれを「こうがふく」といっていますが、こうがふいたきっぽしこそ「きっぽしらしいきっぽし」「おいしそうなきっぽし」だと思うのです。我が家では毎年母がきっぽしを作って私たちにもわけてくれます(写真)。白くこうがふいたきっぽしを長年食べ続けているのですが、今年もらい物のきっぽしがありました。それは全くこうのふいていないきっぽし、本場からお年寄りが取り寄せたものを我が家にもわけていただいたのですが、それを見て「全然こうがふいていないね。」と言っていました。輸入物に見られるように極端に真っ白になっているものも気持ち悪いのですが、まったくこうがふいていないきっぽしも異様に感じます。やはり程々にこうがのっていてほしいものです。この番組で初めて、こうのふいていないきっぽしが出回っていない理由がわかったのです。

食品偽装は嫌なニュースですが、この件のように本来あるべき姿のはずのこうがふいたきっぽしが返品されてくる。このことなどはメーカーにも同情を覚えてしまします。難しい問題ですね。
この件からは、私たちの祖先から長い年月培ってきた食文化が十分に伝わっていないことを思うのです。

耕作放棄地の・・・・

 昨年何度も自然農法を教えていただいたTさんは冬場薪ストーブで暖をとっています。そこで我が家の奥で薪がとれないかと一緒に見に行きました。かつては狭い沢伝いに小さな田畑があったのですが、この沢伝いの土地はいまではすべて耕作放棄地になってしまいました。私の家の田んぼの真ん中にも大きなニセアカシヤの木が立ってしまっています。こうなってしまうと水田の水を保持する粘土層を木の根が突き破ってしまっているかもしれません。畦下の石垣の石の間からも立派な木が育ってしまい、このままでは石垣も崩れてしまうかもしれません。
 でもこの木は十分太く、薪としての利用価値もあるようです。この冬、切っていただけることになりました。そうでなくても切り倒しておかなければと思っていたところです。互いの必要性がうまくかみ合ってくれたようです。
 このあたりの土地はわずか十数年前はほとんど利用されていたのですが、わずかの間に見事に木が生えてしまい、山林へと変わっていく一途です。私の家の田はある年イノシシに入られ、稲が壊滅状態になってしまいました。以来、我が家では水田をやめてしまったのです。そして猿の害にも悩まされるようになり、今では部落の周囲だけは電柵で囲っていますがその範囲を管理することも怪しい状況になってしまいました。久しぶりの我が家の土地を見ても複雑な気持ちです。

食品の墓場

 読者の投書欄に、11月6日付け新聞の「冷蔵庫は『食品の墓場』!?」にハッとさせられた旨の投書がありました。どんな記事だったのだろうと、新聞ストッカーの中から探し出して読んでみました。
 毎日食べるだけの量を購入し使い切る、そんな生活をすればいいのだけれど、多くの人が必要以上に食材を購入し、冷蔵庫にため込んでいる。その結果?として、賞味期限をこえた食材が冷蔵庫の中に眠っている。中には数年たってしまったものも・・・・。冷蔵庫は大型化し、一人暮らしの年寄りが大きな冷蔵庫いっぱいにため込んでいる。
と、まあそんな内容の記事でした。
 確かに冷蔵庫は食品が長持ちするというい性能を過大に評価し、食材をたくさん詰め込んでは使い切れないでいる。冷蔵庫が食材の腐敗を防ぎ安心な食生活をさせてくれる便利なものですが、冷蔵庫がなくてもできるはずのいつもいつも新鮮な食材を入手して食べていくという基本的な考え方を麻痺させている。私たちの痛いところをついている記事ですね。
 気をつけないと。

電柵

「サル害」で書いたように、私たちの部落は野生動物の食害に悩まされています。そこでもう十数年前に登場したのがこんな新兵器、「電柵(でんさく)」といいます。金属製の支柱の間に裸電線を張り、これに電圧をかけておきます。動物がこの電線に触れると、そこから動物の体内を通り足から地面へと電流が走ります。この電気的ショックで、動物が電柵から内に入ってくるのを防ごうというわけです。この電柵が田畑を含め私たちの部落全体を包み込んでいます。要するに「人間自らおりのなかにはいってしまった」のです。

 さて、この効果はどうでしょうか。

 多くの動物には有効だったようです。しかしサルにはこの新兵器もいっこうに通用しないのです。自分たちの周りを囲うと言っても出入り口が必要です。そうです、道路のことですね。

    「この出入り口は人間専用です、サルは通行できません。」

なんて看板が通用すればいいのですけどね。というわけでサル害には相変わらず悩まされているのです。先日の講演会の講師の方も、こういったタイプの電柵をうまく活用するのは難しいとおっしゃっていました。

 

電柵

 この電柵の周囲に植物が茂ってしまうと、枝から電柵を乗り越えてしまう動物が現れます。そこで夏になると定期的に電柵の周囲の除草作業があります。日を決めて、部落の人の共同作業でこの作業を行います。来週の日曜はこの作業の日に決まりましたが、私は都合が悪いため今日一人で若干の除草作業をして不義理の埋め合わせをしました。エンジン付きの草刈り機での除草です。そんなわけで、電柵のこちら側しか刈ってないのです。来週の共同作業が終われば、部落を取り囲んだすべての電柵の両側がきれいになっているはずです。

 山間の悩み多い生活、少しは理解していただけましたか?

(13.5k CT)