カテゴリー別アーカイブ: 音楽:梨大合唱団

Happy Birthday

 学生時代の合唱団では、団員の中に誕生日の人がいるとその日の練習の最後に前に出てもらって「Happy Birthday to You」を合唱して祝った。確か先生の編曲による混声四部だった。これは先生の発案で始まったことで、少なくも私の在学中は続いていた。気恥ずかしくもあるが、あの合唱団に唱って祝ってもらうのは楽しいことであったろう。しかし私の誕生日は大学の後期試験中で、そのあと春休みが続く長く活動のない時だった。だから私は在学中一度も唱ってもらったことがない。今考えると残念なことだ。

残響

 東京公演の会場は第4回(1977年)からは、東京上野の上野学園大学内にある石橋メモリアルホールで行われるようになった。以来、最後の東京公演までずっとこのホールで開かれた。このホールはステージの正面にパイプオルガンが配置されていて、宗教曲など演奏するのにはいうことなしの雰囲気だった。おしゃれな上に、石壁のためか音の反響も大きく、唱う側にとってはとても唱いやすい印象の会場だった。しかし、少々残響過多な印象でもある。私は、本当に美しいハーモニーには残響が多すぎない方がいいと思う。これはレコードでも同じだ。私たちのLPレコードはその製作会社の個性なのだろうが、エコーがかなり強い。レコードから聞こえてくる演奏は、普段の練習を行っている大学教室で聴いていた印象と違うのだ。初めて自分たちのLPを聴いたとき、音楽が化粧されてしまったようなくすぐったい気持ちだった。だから、もし私たちの母校の演奏が「CDに復刻されるのなら、エコーの少ない状態で聴きたいね」と、友人達との間でささやき合っている。

合唱村

 当時のメンバーは「合唱村」ということばに懐かしさを感じるだろう。「聴いて聴いて」という徹底した指導の中からハーモニーが芽生え、音楽をそれぞれ感じるようになってきた頃先生の口からたびたび聞かれたことばだ。「こんなメンバーが近くに住んで、一日の仕事を終えたらどこかに集まって合唱をする、そんな『合唱村』ができたらいいね。」ということだった。この言葉の中には多分に、当時先生がよく話してくれた自然農法の臭いがあり、一日の仕事というのは農業をさした言葉だった。農作業を終えたあとこんな合唱ができれば他に何もいらない。「男性は皆丸坊主」の理想(笑)と同じように、決して実現できるような夢ではない。しかし、そんな情景が一つの夢として、多くの団員の頭の中に描かれたことだろう。先生が夢として語られ、我々団員も夢として感じ取れた、そんなことを「合唱村」ということばから思い出す。

ハモデ

 母校の合唱団が佐々木先生の指導から離れて20年以上の歳月が流れてしまった。昨年久しぶりに部室をのぞいてみたところ、棚の中に「ハモデ」と書かれた黒いケース入りのものが縦に並んでいた。「これ何?」と聞いてはじめてハーモニー・ディレクターというものの存在を知った。混声四部の各パート毎に使えるように4台そろえてある。使い方も何も知らないのだが、鍵盤つきの電子楽器で各音のピッチを変えることができ純正調のハーモニーをつくり出すことができるものらしい。しかし、電子楽器でつくられたハーモニーの響きを聞いて合唱でハーモニーを実現しようなんて、佐々木先生のもとで唱う機会のあった私たちは違和感を感じてしまう。音楽には素人の私だが、ハーモニーのためには「聴く」このとできる耳をつくり、「聴く」ことのできる心を育てることではないのかと思う。そういうものなくしてハーモニーを実現しようなんて何か変だ。先生は音楽教育に分離唱が導入されないことを憂いておられた。音楽に本来大切なはずのハーモニーについて、今の音楽の世界が何かおかしな方向に行ってしまっているように私も感じてしまう。

分離唱合唱団3年目

 この年は小曲ばかりを数多くこなした。讃美歌の多く、この年の特徴である黒人霊歌、日本の童謡などである。この年私にとって印象に残っている曲は何といっても「どんぐりころころ」「まりと殿様」「ずいずいずっころばし」などの日本の童謡だ。いずれも洒落た楽しい編曲で、これらの曲には当時の私たちの合唱団らしさを非常に感じてしまう。
 第3回の東京公演は1回目と同じ朝日生命ホールを会場にして行われ、この年からレコードは定期演奏会と東京公演両方の録音をもとに作られるようになった。納められている曲目も私たちの合唱団らしい小曲がちりばめられ、10枚以上作成されたLPレコードの中でもこのLPは私個人としては最も楽しめる1枚に数えられる。
3年目のレコードのジャケット

第2回東京公演

1975年3月14日
 この年の東京公演は神宮外苑にある日本青年館ホールであった。ホールは随分古く、客席に柱があった記憶がある。山形南高OBがかつて東京公演を行ったホールだと聞いた。先生やお弟子さん達にとっては思い出深い会場であったことだろう。この演奏会のプログラムは残念ながら手元にはない。フォーレの「レクイエム」をメインに、定期演奏会とほぼ同じプログラムですすんだように記憶している。このときの演奏をもとに2枚目のレコードが作成されたので、全曲ではないがその様子を知ることができる。
 このときの演奏会には、当日甲府をたち、演奏会の後日本青年館に宿泊させていただいた。会場のすぐ近くに絵画館があり、大版の日本画の数々ををゆったり鑑賞してから会場に入った。

第31回定期演奏会

 定期演奏会(1974年11月23日)でフォーレの「レクイエム」は最後のステージにプログラムされた。この時の演奏は私たちの団体の歴史の中でも名演の一つに数えられるものと思っている。演奏会でこの曲が終わったとき、しばらく静寂が続き、それからぱらぱらと拍手が始まり大きな拍手に変わる。そんな、音楽に浸った後の余韻を残した静寂と自然発生的な拍手がこの時の演奏の素晴らしさを物語っている。拍手が鳴り終わった後、音楽の余韻をひきついだ先生の話があり、その後はアンコール曲の「汽車ポッポ」だった。この曲ははじめに汽笛が鳴る。「ポ~~~」というこの汽笛がまた素晴らしいハーモニーだった。この演奏会におけるフォーレの「レクイエム」、それにつづく拍手とアンコール曲、演奏を含めたこの一連の流れは、私の心に残る名演である。

この年の曲目 その2

 この年ももちろん数多くの日本の歌や讃美歌を唱った。「今様」、この曲からは平城の都のまわりをゆったりと取り囲む奈良の山々が春霞の中にある淡い情景が浮かんでくる。「でんわ」、ソプラノとアルトのかわいいやりとりがなんとも言えずいい曲だ。「はいはい、私は遠方の 南の風ともうします。」なんて、電話から暖かい南の風が「すーっ」とやってきてこちらも春になっていくような印象だ。「青い小鳥」には、もとになったメルヘンの世界が脳裏に浮かんでくる。
 先生が見えるようになって以来、選曲はほとんど先生からのものだった。そんな中で「汽車ポッポ」は、合唱団の方から練習にのせた曲だ。この曲は先生が見える以前にも唱っていたが、先生が指導に見えてからは日本的情緒の豊かな曲等が中心だったので、先生はこの曲を好まれないのではないかと心配だった。しかし、先生の元で久しぶりに唱ってみるとまた楽しい曲になった。演奏会のアンコールでよく唱ったこの曲で、先生は最後の「シューッ」と蒸気をはき出して停止する場面では座り込んでしまう。そんな先生の姿も含めて印象的な曲だ。

この年の曲目

 フォーレの「レクイエム」のほかに、この年に取り組んだ曲に西洋の古典的な器楽曲等があった。これらはいずれも佐々木先生の編曲で、バッバの「甘き死よ来たれ」や「ゲッセマネにおける主イエスキリスト」、カザルスの「鳥の歌」、シューマンの「トロイメライ」などを思い出す。これらの曲の多くは歌詞無しでハミングで唱った。それからどういう出典かは知らないが、MacDowell作曲の「野茨に寄す」という曲があった。個人的な趣味かも知れないが私はこの曲が大変好きで、今でも度々頭の中に浮かんでくる。
 私の場合、これらの曲はいずれも先生編曲の合唱を唱うことで親しんで、それからLPレコード等の本来の器楽曲としての演奏に親しむようになっていった。このように、本来器楽曲であるが合唱で知ってそれからLPレコードなどで聴くようになった曲がたくさんある。年を下ると、チェロと共演したバッハの「G線上のアリア」やチャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」などもそうだ。先生の著書の中には、先生がSPレコード等で聴いてきたという何人かの演奏家名が登場する。「カペー」や「レナー」もそうだ。私たちはレナー弦楽四重奏団の「アンダンテ・カンタービレ」のSPレコードを探し出してきて聴き、「先生はきっとこの演奏を聞いたんだ」なんて勝手な想像を膨らませていた。

フォーレの「レクイエム」

 2年目から、先生がみえて指導していただけるのは月1回の土曜日に変わった。
 この年(74年)に取り組んだ曲のメインはフォーレの「レクイエム」だ。当時この曲はまださほどポピュラーではなかったように思う。LPレコードでも2種類しか発売されていなかった。オルガンとオーケストラの伴奏の名曲だが、ピアノ伴奏版の楽譜もでていた。この年主体となる合唱団の幹部学年はこの名曲をやりたいと先生に申し出たそうだ。そして偶然なことに、先生からもこの曲が提示されたそうである。ピアノは先生のお弟子さん(男性)が担当することになった。

当時使ったピアノ伴奏版の楽譜