東混での成果
増田さんと東混の話は、まえに書いた。増田さんは、この一年ほどまえから、再び、佐々木基之氏のもとにレッスンに通いはじめているそうだ。佐々木氏の音感教育とは″音に感じる″ことだという。物理現象の音を、人間の精神の高さまで引きあげ、それによって創造しようとするものだ。東混の指導にあたっていて、彼はさらに高い飛躍の壁に行きあたったのかもしれない。
増田さんの話の最後に、彼が東混でやっている佐々木氏の音感教育の方法を、紹介することにしよう。
現在東混では、増田さんの他に二人のトレーナーをおいて、この分離唱を行なっている。四十名近くの団員を三分して、ひとりが十二、三人を受けもつことになる。これくらいだと30分くらいで指導しやすいとのことだった。
まず、ひとりひとりに分離唱を行なう。CEGの三和音を分散和音でなくひき、その余韻を利用して、その和音のなかにとけこめるようなC、E、Gを反復うたわせる。そのためには、よく耳をすませて和音を聞かなければならない。その和音に関する限り、CもEもGも一定の音しかありえないから、もしそれを数人で斉唱させたとしたら、結果は、一本に統一された美しいユニゾンの線が得られることになる。各人が、和音のなかでとらえた自分の音がどんなものか、これは決して単音練習から得られるものと同じではないことを知るのだ。平均率に調律されたピアノ(これも絶対にすべての音が平均率に等分されているとはいえない。調律が調律師の耳と技術でなされる限り、また、使用したあとのピアノでは、狂いはだんだんにひどくなるものだ)を手段に利用することによって、人間の自然感覚のなかの純正調を引きだすわけだ。人間の自然な感覚に依存すればいいのだから、こんな簡単なことはない。むしろ平均律にあわせることのほうが、百分の何パーセント狂わせることのほうが、はるかにむずかしいものだともいえる。
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特集 “野の花”のごとく (その7)
増田青年の情熱(続・続・続)
増田さんと、OBの連中の話をもう少ししよう。コーラス部での音感教育で得をした話。
増田さんは、高校当時は、それほどめぐまれた生活環境ではなかったという。そこでアルバイトをおもいついた。それは、映画の宣伝のためのチソドン屋であった。
さいわい学校にはプラスバンド用に楽器がおいてあった。さきほどの五人組といっしょに、それぞれトロンボーン、クラリネット、トランペット、ドラム。増田さんはバリトンといった編成だ、映画スターのお面をつけ、背には大版のビラをはためかせて、「銀座カンカン娘」も高らかに市内をねり歩いた。数カ月もつづいたこのアルバイトは、結構ギャラにはなったそうだ。
そこで、得をしたというのは、このチンドン屋諸君が、米沢市のある節からの招きで出張演奏をやったときのことだ。多少はいじりなれた楽器でもあったが、譜面があればなんとかなるものの、商売となれぼ、その譜面さえない。わがままはいってはいられない。なんとかかんとか、和音を追っかけなければならない。聞いたこともない流行歌の、またなんとたくさんあることか。純情な彼らは、一生懸命に、音感教育を実地に学んだ。そして冷汗をかきかき、コーラス部での経験が、かくも生かされようとは思わなかったと語りあったそうである。
特集 “野の花”のごとく (その6)
増田青年の情熱(続・続)
この日、増田さんは、上京の連中と一緒にうたった。美しく乱れることの知らないハーモニーは、一層のみがきさえかかっていた。専門教育を経た彼なのに、なにか、このズプなアマチュアの連中から、無言の威圧さえ感じられたものだ。こういったことにも、彼が東混を作るための動機がひそんでいたのかもしれない。
なつかしいOBたちの話では、この演奏会のために、佐々木基之氏にわざわざ山形まできてもらった、ということだった。そして、上京に先だって、夏、山形市での最初の演奏会もやってきたそうだ。度胸だめしといってはわるいが、近郊の小中学校まわりも数回試みたという。話をきくうちに、増田さんは、彼らとの縁が、簡単にたち切れるものではないのを感じたものだった。
増田さんと同じように、在京のかってのコーラス部員たちは、ほとんどが合流して、第一回発表会のステージに上った。勤めの人もいれは大学生もいる。曲は、むかし繰り返し何度も楽しんできたものだ。普通に考えれは、晴れのステージなのに危険を感じるのだが、彼らにはその心配がなかったといってよい。合流した者たちは、立派な調和さえ生んだのだ。現在では、この在京の連中が十四、五名で集まり、毎週一回、高田馬場の佐々木氏宅で合唱している。最近、この東京支店に、”みちのく”という名前がつけられた。わたしが取材でお邪魔したとき、たまたま彼らの合唱をきくことができた。佐々木氏に分離唱、分割唱、三声唱を実際にやっていただいて、それから彼らの合唱がはじまったのだが、そのハーモニーの美しさは、いままで聞いたことのないほどの純粋なひびきをもっていた。取材するわたしのペンの手が何度も止まってしまうほど、心までもうばう美しさであった。
六年前の彼らの上京に、いろんな苦労があったにちがいない。メンバーたちは、いまでは、さまざまな職業にたずさわっていて、仕事で上京できなかった人もいただろう。第一回も、演奏会は黒字だったそうだ。税務署など、田舎の合唱団の上京ときいて、ずい分同情的だったそうだ。
それにしても地方にいれは、東京というと、すばらしく立派な団体ばかりに見えるものだ。そういう先入感が彼らにもあったにちがいない。その不安も、佐々木基之氏の助言で克服した。佐々木氏の彼らにたいする評価は、決してあやまってはいなかったのだ。
こういう合唱団にしても、やはり、合唱団としての悩みはあるのだ。二年後の、第二回東京公演のあと、集まりがわるくなったりして、不振な状態だったこともある。今年などは、東京進出はダメかとおもわれた。しかし、そんな語がちらほら出はじめるころになると、どういうものか、期せずして盛りあがってくるのだそうだ。
特集 “野の花”のごとく (その5)
増田青年の情熱(続)
さて、話を山形にもどそう。
当時の増田青年は、南高二年のとき、事情で一時群馬に転校しなければならなかった。送別のとき、コーラス部全員が駅まで送ってくれたものだ。そのとき駅頭での、いつとはなしにはじまったハーモニーの美しいひびきは、いまでも忘れることができない。
転校さきの群馬では、コーラス部はあるにはあったが、彼をみたすようなものではなかった。教師は、そのうち増田青年に指揮をまかせっきりといった、悠長さかげんだった。近くの女子高校とも、合同で混声をやったが、彼は、このグループにたいして、山形で体験した森山先生の指導を用いた。
これは、美しいハーモニーを作るには、もっとも理解しやすい、そして効果的な方法でもある″分離唱″というものなのだ。これを説明するには、音感教育で著名な佐々木基之氏のことを話さなけれはならない。また、この方法が、みちのくの一隅で実を結んだいきさつは、山形南高の森山三郎氏と佐々木氏との出合いの場からも話さなければならない。このことは、あとで述べよう。
増田青年の、このときの分離唱の効果と体験は、あとになって、東混を生むきっかけとなったものでもあった。
増田さんが芸大への進学を決心したのは、そのころのことだ。一生を音楽にゆだねようと決意したとき、彼は、じつとしていられなくなった。そのとき、彼の心に呼びかける声があった。彼には南高の音楽的な環境が、たまらなく恋しくなってきたのだ。彼は単身、ふたたび山形に舞いもどってきた。彼をそうさせたものに、南高の合唱と、森山先生の指導力と人柄とがあった。彼の高三のときだ。水を得た魚のように、彼の進学準備がはじまった。
そして秋も暮れに近く、彼は上京して渡辺高之助氏に師事し、やがて翌年には芸大に入学したのだ。それから数年。芸大卒業も間近かくなったころ、このOB合唱団は、第一回の東京での演奏会をもったのだ。
特集 “野の花”のごとく (その4)
増田青年の情熱
増田さんは、東京混声の団員で、東混を作り育ててきた人のひとりだ。メールクヮルテットのひとたちや、指揮者田中信昭氏とも、芸大の同クラスで、東混を作るに当って、増田さんが技術面の分担を受けもった。
彼の合唱への情熱は月並みなものではない。東混のなかでも、彼は目立たぬ立場であることを十分に知っていたし、何年も縁の下の忍耐にたえてきた。彼にあるのは、かっての体験からの強い自信と、東北人のねばり強さであろう。東混の今日の演奏は、彼の技術指導の努力も大いにカがあったといってもいいすぎではないだろう。話はついでにそれて恐縮だが、東京混声を支えてきたものは、発足当時からのメンバーの、見事なコンビによるものだともいえる気がする。増田さんの地味なねばりと自信。メンバーより五才年長だった田中さんの統率力と音楽のまとめ役。それにアンサンブルには情熱を傾けて悔いないほかの連中。もうひとりはマネージャーの松浦さんだ。彼もYMCAの合唱で、後述の佐々木基之氏とは無関係ではない。そういった組合わせが、東混の支えとして、いまもなお続けられているときく。
特集 “野の花”のごとく (その3)
南校の五人組
話は、昭和26年3月にさかのぼる。
山形市の東、駅前通りを真直ぐ、10分もいくと、そのだらだら坂をのぼりきったところに、県立山形南高等学校がある。
三月といっても、裏手の山の木々は、まだ春というにはほど遠い。山形市をつつむ村上盆地の、周囲の山々の嶺には残雪が望める。ここからは有名な蔵王も近い。
卒業式が終わったはかりの南高校庭には、希望にもえた若者たちが三々伍々、帰りはじめていた。
そのなかに五人組の連中がいた。田島義久(本誌八月号では、気の毒? にも森山三郎氏の写真と間違えられていた)、中村博、砂山弘、石沢行夫、足立良介(いまは横山姓)の五人のひとたちだ。
彼ら五人の足どりは、ともすると申しあわせたように重くなるのだった。一歩一歩遠ざかっていく校舎、その音楽室での体験が、彼らを引きつけるのだ。
音楽の森山(三郎)先生のもとで学んだ合唱の喜びは、教室での″勉強″といったものではなかった。それほ、彼らの生活のなかにまでくいこんだ、強い深い体験でもあった。卒業して進学するものもいる。この五人の連中も、社会にでれば、やがては離ればなれになってしまうにちがいない。そうおもうと、彼らには、このまま別れてしまうのが、おそろしく寂しく感じられてしかたがないのだ。そのときの空虚さは、おもっただけでやりきれそうにもない。
-五人だけでも続けないか?
-そうだ。男声合唱団を作ろう。来年になれば、後輩たちがいる。そのさきも、そのさきも、おれたちのあとに続く連中が、わんさといるじゃないか・・・・・
こうして彼らは四月にはいってから、この五人を中心にして山形南高OB合唱団を作ったのだ。毎週一回の集まりだ。なんの野心もない。ただ自分たちが楽しめるものであれはよい。彼らは、森山先生に学んだ方法で練習した。そして、ハーモニーに関してだけは、彼らのひとりひとりがきびしかった。
だから、いまでも彼らはちょっとでもハーモニーが乱れると歌いやめてしまうそれは気負った気持からではない卒直にうたえなくなってしまうのだ。
ところで、山形南高というのは、もともと男子高校で、女生徒の数は一クラスほど。混声合唱は学校ではやっているそうだが、男の学絞としての伝統とか習慣が強い。五人のOBで発足したこの合唱団にも、そういう力が無意識に働いていたのかもしれない。
それから一年たった。後輩が集まった。そして、10名だったメンバーは20名に急増した。このなかにはいなかったが、そのクラスに増田邦明という青年がいた。彼のことも話しておく必要がありそうだ。
特集 “野の花”のごとく (その2)
″野の花″のごとく……
その夜の日本青年館は、名も知れない東北の一男声コーラスをききに、それでもかなりの聴衆が集まった。1000名あまりを収容できる会場は、八割もはいれは盛況を呈した。
合唱団の先輩とか知人の閑係者をのぞき、その夜の聴衆のほとんどが、半信半疑で幕の上がるのを待ったにちがいない。地方都市からの、この若いおのぼりさんたちの晴れ姿に、多分に同情的だったことも否めまい。タカをくくった聴衆も、形式的な声援を送るだけの客も、きっとたくさんいたにちがいない。
ところが一部、二部とステージが進むうちに、そういう不遜な客たちは、自分たちの態度をあらためないわけにはいかなくなった。
プログラムをうずめる25曲、それにアンコールをふくめて、そのハーモニーの、美しく安定した姿に驚嘆させられたのだ。男声合唱特有の発想とか勇壮さとか、時には粗野な叫びに似た刺激さえ感じるあの不快さとか、そういったものの片鱗もない洗練された音楽に、いつのまにかひきいれられていったのだ。きわめて自然にひびく自然のハーモニー。刺激がないといえはなさすぎるくらい。天然自然のままの姿といってふさわしいその合唱に、聴衆は何の抵抗もなく感動に誘いこまれていったのだ。
二十名ほどの少数グループだ。純粋にひびくハーモニーと、その流れだけがこの連中のすべてだった。聴衆たちは、この夜の演奏からつぎのようなことを学んだ。
- 音楽的感動の大半は、ほんとうに美しく調和したハーモニーにあるのだ、と。逆にいえは、ハーモニーをないがしろにしたところには、決して音楽的感動は起りえないものだということ。
その夜の聴衆たちは、このことをあらためて実感し、このありふれた理屈を、いまさらのように心に銘じたものだ。
これが、この”合唱界”という雑誌の生まれる一年あまりも前のことだ。こうして最初の礎石は、この大地に打ちこまれたのだった。
きくところによると、そのころの彼らにはつねに50曲の暗譜レパートリーがあったという。そして彼らのコーラスは、音叉などの音で、パートが確かめあって歌いだすようなものではない。メンバーの誰かに合唱の感動が起り、うたいだすや否や、いあわせた音たちはただちに美しいハーモニーを保って流れだすということである。それというのも、彼らは″ある特別の訓練″を経てきたからだ。50曲暗譜の件とも大いに関連がある。彼らが、特別に頭がいいということでもない。また、特別に才能にめぐまれた連中というわけでもないのだ。普通の、どこにでもいる青年たちにすぎない。それに、彼らはつぎからつぎへと、新しい曲にとびこむことをあまり好まない。彼らが純朴で消極的だからというのではない。彼らは、自分たちで作った実しいハーモニーで、同じ曲を何度くりかえしても、感動を新たにすることこそあれ、決してあきることがないのだ。
彼らにとって合唱することは、練習することではない。たしかに、楽しむための合唱を、合唱しているということがいえそうだ。
彼らの合唱は、″野の花″のごとく、あるがままの姿である。その美しさは神秘でもなんでもない。誰にでも、自然は、心の中に用意されているはずだから。
さて、ここで、東北の一隅に咲き誇る、この″野の花″たちの物語をはじめることにしよう。
特集 “野の花”のごとく (その1)
特集 “野の花”のごとく
みちのくのある合唱団の上京まで
あ る プ ロ グ ラ ム
この十二月十一日夜、日本青年館で東北の名も知れぬ一合唱団が演奏会を開く。団員はすべて現在商業、農業に従事、あるいはサラリーマンとして勤めている人びとである。今年ですでに三回目、そのハーモニーの独特の美しさはようやく識者の注目をひきはじめているという。この合唱団の名は山形南高OB合唱団。本号ではこの合唱団が山形から上京して演奏会を開くに至ったその歩みと彼らが持つ音楽の内容にふれてみよう。
楽しい合唱の夕べ
-山形南高OB合唱団発表会-
指揮 佐々木 基之
1955.11.9 PM6:30
於 日本青年館
六年まえの、この表紙の文字は、日にやけて色あせている。二つ折り四ページという、簡単で味もそっけもないお粗末なプログラムにすぎない。
だが、この色あせた表抵の、不器用なゴシック体の文字には、みる人たちにとって、忘れることのできない感激の思い出があった。山形南高校OBの男声合唱が、遠いみちのくからはるばる東京進出を試みた、最初の記念すべき記録なのだ。そして、貴重な体験のきざみこまれたいしぶみでもあった。
いや、碑というより、むしろ礎石(いしずえ)といったほうが彼らにはふさわしい。なぜなら、現に彼らは、みちのくの山形市だけでなく、分身を東京にもつ合唱団として、成長し発展し続けているからだ。そして、わずか二回にすぎない東京での機会なのに、きわだって美しいハーモニーは、すでに定評もある。
そして、さらに第三回目の東京進出を、この十二月十一日に、東京のこの同じステージで試みようとしている。東京には、彼らのかくれたファンも少なくない。このファンたちはこの男声コーラスのもつ、独特の美しいハーモニーを待ちこがれているのだ。コンクールには縁のないこの合唱団の存在は、決して派手なものではない。そういう無欲さと地味な歩みに、ファンたちは親しみをもっている。そして、素朴で、土の匂いさえにおってくるようなこのグループに、心からの声援を惜しまない。その上、これが地方の合唱団かとおもうほどの、おどろくほどの安定したハーモニーに、一回で魅りょうされ、そのとりこになってしまうのだ。六年まえのプログラム。それは碑という過去のものではなく、礎石としての価値を、彼らは作りあげてしまった。そうおもうとき、その文字からは、ほのぼのとした素朴な人の心と、土の匂いがただよってくるのを感じるのだ。そして、そこには、強い勇気と、高い誇りとが感じとられるのだ。
彼らの物語をはじめるまえに、第一回発表会の、その色あせた、だが貴重なページをめくってみることにしよう。
(14.5k CT)
山形南高OB合唱団資料
山形の讃美歌さんからうれしい資料を頂きました。内容は山形南高OB合唱団の演奏会プログラム、新聞記事、雑誌記事等のコピー。この合唱団のファンであるわたしには大変うれしいものです。
雑誌というのは、東京音楽社の「合唱界」という音楽雑誌のこと、今は絶版であり、もう古本も手に入りません。頂いた資料によると、「合唱界」に佐々木先生、南高OB合唱団、増田順平さんのことなどあわせて3回紹介されています。
1960年1月号
「合唱団のハーモニーの作り方」 佐々木基之
「私の考え」 増田邦明
1961年8月号
「すべての人に合唱の歓びを!」 佐々木基之
「音楽教育で育った美しいひびき
みちのくに実った山形南高OB合唱団」 湊 和夫
1961年12月号
特集「“野の花”のごとく
みちのくのある合唱団の上京まで」 M
コピーを頂いた私は、古本でも手に入らないかと東京出張の折りに神田に足をのばし音楽関係の古書店もあたって見たのですが、さすがにこれだけ古い雑誌は見あたりません。「合唱界」という雑誌自体が全く店で見ることができないのです。このような絶版になってしまって入手不能な記事については、紹介しても許されるのではないでしょうか。そこで、私たち分離唱による音感合唱経験者にとって熱いものがわいてくるこの記事を何回かに分けて紹介させていただきます。