この年の曲目 その2

 この年ももちろん数多くの日本の歌や讃美歌を唱った。「今様」、この曲からは平城の都のまわりをゆったりと取り囲む奈良の山々が春霞の中にある淡い情景が浮かんでくる。「でんわ」、ソプラノとアルトのかわいいやりとりがなんとも言えずいい曲だ。「はいはい、私は遠方の 南の風ともうします。」なんて、電話から暖かい南の風が「すーっ」とやってきてこちらも春になっていくような印象だ。「青い小鳥」には、もとになったメルヘンの世界が脳裏に浮かんでくる。
 先生が見えるようになって以来、選曲はほとんど先生からのものだった。そんな中で「汽車ポッポ」は、合唱団の方から練習にのせた曲だ。この曲は先生が見える以前にも唱っていたが、先生が指導に見えてからは日本的情緒の豊かな曲等が中心だったので、先生はこの曲を好まれないのではないかと心配だった。しかし、先生の元で久しぶりに唱ってみるとまた楽しい曲になった。演奏会のアンコールでよく唱ったこの曲で、先生は最後の「シューッ」と蒸気をはき出して停止する場面では座り込んでしまう。そんな先生の姿も含めて印象的な曲だ。

この年の曲目 その2」への3件のフィードバック

  1. 讃美歌

    私は1970年から1972年の3月まで約2年間、毎週の様に、佐々木先生のお宅を訪問し(最初は高田馬場、途中から国分寺)当時、国立音大の生徒さんでピアノのお弟子さんであった人達と合唱を楽しんでおりました。恵美ちゃんが3歳ほどで美和ちゃんが生れた時でした。恵美ちゃんがたまに、合唱に加わって讃美歌を一緒に歌った事などが思い出されます。
    ある日、先生が日本合唱協会を指揮したレコードを聴かせて頂いた事があります。
    多分、先生はハーモニーについては満足していなかったと思われ、自分も日本の合唱団だな・・と思って聴いた覚えがあります。それでも、先生は日本的な情緒は感じられるだろう・・・と言って、当時、若杉浩さんが指揮した日本合唱協会の合唱には日本的情緒も感じられない事を嘆いておりました。冗談に彼は若過ぎるなどと言って笑わせておりました。

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  2. すすき

     私たちの団体にみえる1年前のことですね。何人くらいで唱ったのでしょう、男性の人数は?どんな曲を?この頃の先生の様子は?と、次々と知りたいことが浮かんできます。先生は、「Y大は私を呼ぶのに4年もかかった」とよく言われましたが、当時Y大のことが話題になったこともあったのでしょうか。
     以前このブログに書いた日本合唱協会のレコードは若杉弘さんの指揮であったかもしれません。佐々木先生が指揮したレコードの存在は、私は知りませんでした。

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  3. 讃美歌

    当時、佐々木先生の家に集まって合唱を楽しんでいたのは多い時で、国立音大の学生さんや、卒業した人達で女性が9名ほど、男声は山形南高OBで学生であった人達が5名ほど、それに、私の様に山形南高OBで社会人として参加していたのが2名、更に、佐々木先生のピアノのお弟子さんで今は、ドイツで家庭を築いて居られる木村(恭雄?)氏が時々、一緒に唱っておりました。木村氏は先ののブログにあったフォーレのレクイエムを演奏した時のピアノ演奏者です。この時の演奏も山形から出かけて客席で聴いておりました。私が山形へuターンする頃は女性が6名ほど男性は社会人であった2人だけでした。
    その頃は、山梨大の事は全く知りませんでした。多分、私が山形へ帰る頃から持ち上がった話しではないでしょうか?
    佐々木先生が指揮した日本合唱協会のレコードは先生のお宅に今でもあると思うのですが・・・。

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