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第31回定期演奏会

 定期演奏会(1974年11月23日)でフォーレの「レクイエム」は最後のステージにプログラムされた。この時の演奏は私たちの団体の歴史の中でも名演の一つに数えられるものと思っている。演奏会でこの曲が終わったとき、しばらく静寂が続き、それからぱらぱらと拍手が始まり大きな拍手に変わる。そんな、音楽に浸った後の余韻を残した静寂と自然発生的な拍手がこの時の演奏の素晴らしさを物語っている。拍手が鳴り終わった後、音楽の余韻をひきついだ先生の話があり、その後はアンコール曲の「汽車ポッポ」だった。この曲ははじめに汽笛が鳴る。「ポ~~~」というこの汽笛がまた素晴らしいハーモニーだった。この演奏会におけるフォーレの「レクイエム」、それにつづく拍手とアンコール曲、演奏を含めたこの一連の流れは、私の心に残る名演である。

O社との接触

 自宅近くにO設備という水道工事業者がある。まず手始めにこの業者に今まで集めた資料を持参して、浄化槽の転用について見積りをしてくれないかと話してみた。
業者の反応は、
    「そんなことは、水が腐って使い物にならないよ。」
といわれた。講演会の話や資料から「雨水はきれいだ」「日光が入りさえしなければ、水はきれいなまま保てる」等の話をしたが、
    「浄化槽の中はちょっとやそっとできれいにできるものではない、不可能だ」
    「そんなことをする業者はいない」
などと全く相手にされなかった。

この年の曲目 その2

 この年ももちろん数多くの日本の歌や讃美歌を唱った。「今様」、この曲からは平城の都のまわりをゆったりと取り囲む奈良の山々が春霞の中にある淡い情景が浮かんでくる。「でんわ」、ソプラノとアルトのかわいいやりとりがなんとも言えずいい曲だ。「はいはい、私は遠方の 南の風ともうします。」なんて、電話から暖かい南の風が「すーっ」とやってきてこちらも春になっていくような印象だ。「青い小鳥」には、もとになったメルヘンの世界が脳裏に浮かんでくる。
 先生が見えるようになって以来、選曲はほとんど先生からのものだった。そんな中で「汽車ポッポ」は、合唱団の方から練習にのせた曲だ。この曲は先生が見える以前にも唱っていたが、先生が指導に見えてからは日本的情緒の豊かな曲等が中心だったので、先生はこの曲を好まれないのではないかと心配だった。しかし、先生の元で久しぶりに唱ってみるとまた楽しい曲になった。演奏会のアンコールでよく唱ったこの曲で、先生は最後の「シューッ」と蒸気をはき出して停止する場面では座り込んでしまう。そんな先生の姿も含めて印象的な曲だ。

雨水槽への転用HP

 浄化槽の雨水水槽への転用について書かれたホームページがいくつかある。以下のようなものだ。
浄化槽再利用の場合http://www.kamino.co.jp/html/reform/kankyo_reform.html
わが家の雨水利用http://www.tcn.zaq.ne.jp/membrane/WaterRainP.htm
雨水貯槽転用工事費http://www.tcn.zaq.ne.jp/membrane/WRcost.htm
業者との接触に当たり、このような知識は非常に役立った。自分自身ができるだけの知識を備えていないと、業者は強気になる。それに対して話ができないと、一方的に押し切られてしまう。これが数多くの業者に接触してみた私の印象だ。

この年の曲目

 フォーレの「レクイエム」のほかに、この年に取り組んだ曲に西洋の古典的な器楽曲等があった。これらはいずれも佐々木先生の編曲で、バッバの「甘き死よ来たれ」や「ゲッセマネにおける主イエスキリスト」、カザルスの「鳥の歌」、シューマンの「トロイメライ」などを思い出す。これらの曲の多くは歌詞無しでハミングで唱った。それからどういう出典かは知らないが、MacDowell作曲の「野茨に寄す」という曲があった。個人的な趣味かも知れないが私はこの曲が大変好きで、今でも度々頭の中に浮かんでくる。
 私の場合、これらの曲はいずれも先生編曲の合唱を唱うことで親しんで、それからLPレコード等の本来の器楽曲としての演奏に親しむようになっていった。このように、本来器楽曲であるが合唱で知ってそれからLPレコードなどで聴くようになった曲がたくさんある。年を下ると、チェロと共演したバッハの「G線上のアリア」やチャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」などもそうだ。先生の著書の中には、先生がSPレコード等で聴いてきたという何人かの演奏家名が登場する。「カペー」や「レナー」もそうだ。私たちはレナー弦楽四重奏団の「アンダンテ・カンタービレ」のSPレコードを探し出してきて聴き、「先生はきっとこの演奏を聞いたんだ」なんて勝手な想像を膨らませていた。

フォーレの「レクイエム」

 2年目から、先生がみえて指導していただけるのは月1回の土曜日に変わった。
 この年(74年)に取り組んだ曲のメインはフォーレの「レクイエム」だ。当時この曲はまださほどポピュラーではなかったように思う。LPレコードでも2種類しか発売されていなかった。オルガンとオーケストラの伴奏の名曲だが、ピアノ伴奏版の楽譜もでていた。この年主体となる合唱団の幹部学年はこの名曲をやりたいと先生に申し出たそうだ。そして偶然なことに、先生からもこの曲が提示されたそうである。ピアノは先生のお弟子さん(男性)が担当することになった。

当時使ったピアノ伴奏版の楽譜

時期到来

 合併浄化槽の管理のためには業者とメンテナンス契約をしている。その業者によると、「ばっ気・逆洗用ポンプにも負担がかかってきた。そろそろ汲み取りを。」との報告が来た。このタイミングで下水道に接続しなければならない。年度末の契約更新時期までが理想だ、さもなければ更に一年契約料が必要になる。そして浄化槽の雨水水槽への転用のためには、同時にその工事もしなければならない。浄化槽への接続は水道業者ならどこでもやってくれるが、雨水水槽への転用を手がける業者は知らない。まずは業者探しからである。

合唱団の運営

大学合唱団はどこもそうなのだろうが、3年生が中心となって運営する。これは4年生は卒論で忙しくなってしまうためだろう。私たちの団体は、学生指揮者2名(3年と4年)、ソプラノ・アルト・テナー・バス各パートのパートリーダーとサブパートリーダーがおり、このメンバーを技術部門と呼んで音楽面での中核を担っていた。それとは別に運営部門があり、いわゆる団長に当たる理事を筆頭に副理事・庶務・会計・楽譜係などがあった。また、合唱団で年一回発行される機関誌「笛吹」と度々発行される小冊子の「和声」があり、このための編集委員という役もあった。つまるところ、3年生はほぼ全員何かの役に付かなければならないしくみになっていた。

合唱団の先生との窓口はもっぱら理事が担当していた。そして理事・副理事・学生指揮者は選挙で決めていた。佐々木先生を招聘するのも総会で決定したことだった。このように選挙によって中核の役員が決まることや、総会でさまざまな決定がなされることなどを先生は嫌っておられた。「国会のまねごとをして、私を呼ぶのに○年もかかった。」なんて、よくいわれたものだ。

レコード

 この演奏会(第1回東京公演)の録音をもとに初めてのレコードが製作され、自分たちのレコードをはじめて手にすることができた。レコードは少々エコーが過多であるとも思うが、なかなかのハーモニー、なかなかのできばえであった(これは私自身が入って唱っていることからくる、かなり控えめな表現です)。価格は2千円、貧乏学生にとってはちょっと勇気のいる金額であるがこの時ばかりは私も1枚購入した。金銭面のこともあるが、この頃の私たちにとってレコードに記録された音楽が日常の生活の中にあるのだから、特別購入する必要も感じなかった。だからその後も毎年作成されたレコードを私はほとんど購入しなかったし、多くの団員も同様であった。しかし、私の友人Kさんはこのレコードを10枚くらい購入して(家族や友人)に配ったとのことである。彼も決してゆとりのある学生生活ではなかったはずだが、当時の演奏に大きな価値を見いだしていたのだろう。


1stLP
初めてのレコードのジャケット

神田の大イトザクラ

 この桜もちょっと有名で、シダレザクラとしては県内最大だそうだ。背景に写っているのは南アルプスで、手前にはたくさんの水仙が咲いている。桜自身の開花はちょっと早く、まだ二分咲きといったところだ。田圃のなかに一本巨大な桜があるが、周囲の田圃ではそのために浴びることのできる日光も少なくなってしまう。米の収量だって減ってしまうだろう。桜でなかったらとうに切られてしまったのだろうが、日本人は本当に桜が好きだ。