4山梨大の合唱団(音楽教育に光)

「分離唱」によるハーモニーの教育(下)
音楽教育に光
~ 子どもたちは確実にその心を取り戻して行った ~

一回ごとの分離唱指導で、子どもたちは大きく変わっていく。騒がしさが消え、自然に集中する。歌詞を説明する筆者が見たのは、自分の心の中に歌詞の世界をくり拡げ、嬉しそうに浸っている子どもたちの姿であった。

 

山梨大の合唱団
すばらしいハーモニー。しかし、団員がかもす雰囲気は、それ以上に美しかった。

 分離唱のレッスンを受け始めてから四ヵ月が過ぎた五十三年九月のはじめに、私は国立山梨大学合唱団の合宿に参加する機会を得た。佐々木先生の指導のもと、分離唱で耳をひらいて合唱活動を行なっている合唱団たった。

 耳をひらいている人々の合唱!想像した通り、それは何と心安らかなハーモニーのひびきだったことだろう。気負いのない、素朴な音楽は、合唱団員の人柄とともに、私たち見学者の胸を打った。

 だが、不思議なことに、私は一度この合唱のレコードをとても退屈な気分で聴いたことがあるのだ。分離唱のレッスンヘ行きはじめてまだ間もない頃たった。それはちようど、少しボヤけた画面を見なれてしまうのに似て、ピントのしっかり合った画面を見てもさはどよいと感じない状態になっていたのだろう。感覚が鈍っているからだ。これほど美しいハーモニーを私は何とも感じないで聴いていた頃があったのだ。私の耳は相当鈍っていたようだ。

 分離唱開始から四ヵ月、この合宿で私は

梨大のハーモニーを十分心に感じとることができるくらいにはなった。しかし、まだ皆さんと一緒に声をそろえて合唱することはできなかった。

 一緒に歌うと自分の声ばかり聞こえて、梨大の人たちの合唱は遠くへ行ってしまうのだ。自分が歌うのを止めてみると、すばらしいハーモニーがそこにあった。

 これは皆、私か耳をひらいてないために起こることだった。それから七ヵ月経った春の合宿では、私も合唱団のハーモニーを心いくまであびながら一緒に歌うことができたのだ。

 この合宿で、私の心を揺り動かしたのは、合唱の美しさだけではなかった。それよりも合唱団の雰囲気は、もっと私の心をひきつけて離さなかった。ここには謙虚で真面目で、そして包み込むような温かさがあった。

 私に楽譜がないとわかると、そのたびに楽譜はどこからかまわって来て、いつの間にか私の前に届けられていた。それは教えられたお世辞や礼儀とは何か違う感じで強いて

言うならば、「あなたも合唱する時、大事な友だちなのですよ」と言われているような感じだつた。皆、お互いを必要としている-そんな世界だった。

 学生さんの一人一人の姿の中にはみな自分があった。もちろんおとなしい人もいたし、私か直接ふれあうことのなかった人も大勢いたが、どの人も何か心に大切なものを持っているという風に、私には感じられた。

 一体この不思議な雰囲気は何だろう?分離唱で耳がひらくと、合唱のひびきに自分の声をピタリと合わせる力がそなわる。耳をひらいて合唱するということは、仲間の声を聴くということなのだ。皆聴き合い、支え合ってハーモニーが生まれる。合唱する人々は、皆本当の意味で自分の仲間なのだ。耳をふさいで自分のパートだけを覚えて合唱して行く世界とは、自ずからその精神が違って来るのは当然だった。

 私を強くつかんで放さなかったこの雰囲気こそ、私かこの合宿で得た最大の収穫であった。私はすばらしい収穫を得て千葉へ帰ることができた。

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