夏合宿

 

 大学の夏休みは長い。当時は7月11日から9月10日までの丸々2ヶ月間だった。毎日唱っていた私たちも、夏休みが始まると練習がなくなり9月1日の合宿までは我慢となる。この年の夏休みはいつにもなく合唱が恋しくなった。

 その合宿、先生も家族をともなって私たちと同じお寺に寝泊まりした。残暑の厳しい時期だが、ここは河口湖畔の気候もだいぶ涼しいよい環境であった。食事は自炊である、班別に炊事当番が決まっていてメニューや材料などは事前に準備しておき、時間になるとその(男女混成の)班は練習を抜け出して食事の準備にかかる。こんなことも我々にとっては楽しいことであったが、炊事当番が練習の途中で抜けることについて先生は大変嘆いておられた。

 この合宿、先生ははじめから(だったと思う)指導してくださり、このときも次々と新しい曲を譜読みしてはレパートリーを増やしていった。朝から夕方まで先生の指導を受けるのだから、感じることも多かった。詳しいことは覚えていないのだが、この合宿で何か開けてきたような明るい印象を持っている。何の疑問も持たず先生の音感合唱に向かって突き進んだこの時期は、私の学生時代の記憶の貴重な1ページだ。夜は班別のミーティングのようなものがあったが、先生は各班にまわっ
てこられて話に加わってくれた。このとき、「今回の休みほど合唱が恋しいと思ったことはない」というようなことを言ったところ先生が突然「何でそういう気持ちを手紙でくれないんだ」と厳しい口調で言われた。そういう便りを待っていてくれ、また便りを非常に喜んでくれた。先生に心を寄せれば、またやさしい心を返してくれる、そんな先生だった。しかし私にはそういう便りを送るような心は育っていなかった。今思うと残念なことである。

 先生の話されることは、音楽ばかりではなかった。「食」についても非常に強い関心をもっておられ、玄米菜食を実践しているはなしを聞いたのも印象的である。タンポポの根が食べられることも初めて知った。玄関やトイレの履き物を履きやすい向きにそろえておくことを求められ、洗面時に水道水を出し放しにしていると怒られた。高度成長期でものが豊富にあり、科学万能のような考えや民主的な教育で育った私達に、突然従来からあった日本の文化を突きつけられたようなものだったが、それについて抵抗感を抱いた人はいなかったように思う。ただし、「男性はみな坊主頭」という先生の理想(?)に従う人は誰もいなかった(笑)。

 丸坊主、後日談

  1年目の先生は厳しかった、だからみんな先生の注意には襟を正した。結構怖かったのも事実だ。「男性はみな坊主頭」がいいと先生がいうの

も全くの冗談ではないことをみんな感じていた。2年目からの先生は、1年目ほどの怖さではなくなった。2年目になってから入団してきたある男子学生はそんな先生の怖さは知らなかった。2年目の夏合宿で、夏休みを終えて合宿で久しぶりに見たこの方は何とパーマをかけてきた。そしてこの年の合宿では、先生が新入団員には全員面接をすると言い出した。彼は面接の対象者である。周囲の者はこのパーマに先生の怒りが爆発しないかと内心心配したものだ。しかし、面接は何事もなく無事終了した。

 話を戻して1年目の夏合宿、合宿最終日はもう練習がなく荷物をまとめて帰るだけである。先生はその前日いっぱいの指導を終えて東京に帰ることになった。夕闇につつまれた頃、寺の境内に全員で見送りに出て、自家用車に乗り込むまでの間みんなで何曲か合唱をした。唱った後、先生は私たちに出会ったことの喜びを語られた。しんみりとした雰囲気の中で、先生の「皆に会えてよかった」「みんないい人間になってくれよと」いう言葉に男性団員の一人が感極まって「先生!」と叫んだ。先生の著書「耳をひらく」にも記されているあの場面に私もいた。

 

戻る(「梨大合唱団資料」へ)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>