特集 “野の花”のごとく (その3)

南校の五人組

 話は、昭和26年3月にさかのぼる。

 山形市の東、駅前通りを真直ぐ、10分もいくと、そのだらだら坂をのぼりきったところに、県立山形南高等学校がある。
三月といっても、裏手の山の木々は、まだ春というにはほど遠い。山形市をつつむ村上盆地の、周囲の山々の嶺には残雪が望める。ここからは有名な蔵王も近い。
卒業式が終わったはかりの南高校庭には、希望にもえた若者たちが三々伍々、帰りはじめていた。
そのなかに五人組の連中がいた。田島義久(本誌八月号では、気の毒? にも森山三郎氏の写真と間違えられていた)、中村博、砂山弘、石沢行夫、足立良介(いまは横山姓)の五人のひとたちだ。
彼ら五人の足どりは、ともすると申しあわせたように重くなるのだった。一歩一歩遠ざかっていく校舎、その音楽室での体験が、彼らを引きつけるのだ。

 音楽の森山(三郎)先生のもとで学んだ合唱の喜びは、教室での″勉強″といったものではなかった。それは、彼らの生活のなかにまでくいこんだ、強い深い体験でもあった。卒業して進学するものもいる。この五人の連中も、社会にでれば、やがては離ればなれになってしまうにちがいない。そうおもうと、彼らには、このまま別れてしまうのが、おそろしく寂しく感じられてしかたがないのだ。そのときの空虚さは、おもっただけでやりきれそうにもない。

 -五人だけでも続けないか?
 -そうだ。男声合唱団を作ろう。来年になれば、後輩たちがいる。そのさきも、そのさきも、おれたちのあとに続く連中が、わんさといるじゃないか・・・・・

こうして彼らは四月にはいってから、この五人を中心にして山形南高OB合唱団を作ったのだ。毎週一回の集まりだ。なんの野心もない。ただ自分たちが楽しめるものであれはよい。彼らは、森山先生に学んだ方法で練習した。そして、ハーモニーに関してだけは、彼らのひとりひとりがきびしかった。だから、いまでも彼らはちょっとでもハーモニーが乱れると歌いやめてしまうそれは気負った気持からではない卒直にうたえなくなってしまうのだ。ところで、山形南高というのは、もともと男子高校で、女生徒の数は一クラスほど。混声合唱は学校ではやっているそうだが、男の学絞としての伝統とか習慣が強い。五人のOBで発足したこの合唱団にも、そういう力が無意識に働いていたのかもしれない。

 それから一年たった。後輩が集まった。そして、10名だったメンバーは20名に急増した。このなかにはいなかったが、そのクラスに増田邦明という青年がいた。彼のことも話しておく必要がありそうだ。

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