分離唱の合唱、日々(その1)

年間スケジュール等

練習は毎日昼休みに30分、水曜日の夕方1時間半(2時間だったかも知れない)、土曜日の午後3時間でした。今考えると何と恵まれた環境だろうかと思います。それから、4月の講義が始まる前の春合宿(3泊4日だったかな?)、9月の1~8日の夏合宿(当時は7/11~9/10が夏休みだった)、前期と後期のあいだの休みに秋合宿(2泊3日かな?)。定期演奏会は11月か12月に甲府で、先生の指導が始まってからは3月に東京公演がありました。東京公演は何年か続けた後、年末に開かれるようになりました。東京公演は先生が主催したもので、その後先生の手によりその年のLPレコードを作成していた。このソースは東京公演での演奏が中心であったものと思っています。

練習風景

合唱団の練習はまず分離唱を数分、それからハミングでカデンツを行いました。その後はもう合唱曲を唱います。一般的な練習で行う発声練習などは一切ありません。

新曲の練習はピアノの上手な人(教育学部がありましたので、団員の中に音楽の先生の卵が何人もいました)が全パートをピアノで弾きます。団員はこのピアノを聴きながら、楽譜を見て自分のパートを歌詞で唱います。はじめはゆっくり、数回ピアノと一緒に唱ったあと今度はピアノ無しで唱います。これで譜読みは終わりでした。パート練習など全くなく、単音で音をとることもなく、はじめからハーモニーの響きの中で練習できる実に合理的な譜読みでした。

毎週水曜日

この年、先生は水曜日の練習に毎週みえました。奥様と幼い娘さん二人をつれ、自家用車でです。それから当時ちょっとしたヒット商品のソニーのカセット・デンスケという革製ケース入り携帯用のカセットデッキを肩から下げてきました。そして、いつの練習もこれに録音されていました。

70才超の先生にとって東京からの運転は大変なことだったと思いますが、私たちの合唱団に本当に情熱を注いでくれました。それだけに練習には厳しく、特に旋律を唱うソプラノには厳しかった記憶があります。先生の指導は技術的なところではなく、むしろ人間的なところに向けられました。印象に残っている言葉としては、まず第一に「聴いて聴いて」。この年、先生は徹底して「聴く」ことを教えてくれたように思います。それから「お話しとおんなじだよ」ということ、「聞いている人に言葉がわからなければいけない」とも言われました。「うたやいいんでしょ」という乱暴な唱い方を戒められ、小さな声でそっと唱ってみせて曲の中で語ることを教えてくれ、そして良くないときには「全く冷淡だよねー。」とため息をつくように言われました。だから先生からは音楽と一緒に人間的な部分、人間性というようなものについて教わった気がします。

取り組んだ曲

この年、私たちが取り組んだ曲目は全てア・カペラ、ほとんどが1ページから2ページの小曲でした。楽譜は増田順平編曲の「からたちの花」という混声合唱曲集、のばら社の「混声合唱名曲選」、

それから先生が編曲してくる数々の楽譜でした。4月からそれらを「これ、やってみよう」と次々と譜読みをして、この年に取り組んだ曲数は80曲にのぼりました。この前書いたように、私たちの譜読みは大変合理的で全く苦にならなかったのです。この年在籍したメンバーは分離唱で耳を鍛えられると同時に、譜読みによっても耳が鍛えられたのではないかと思っています。

私のおもい

このころの練習について、あまりはっきりとした記憶はありません。ただ、私の場合は新しい練習方法や先生の音楽の世界に自然にはいっていけた気がします。美しい小曲が次々と歌え、毎週水曜日には先生が東京からみえて指導してくださり、先生の音楽の世界にはいっていられたわけです。なかでも山田耕筰をはじめとする多くの日本的情緒豊かな小曲を感じさせていただいたことが印象的です。ちまたでは某姉妹が日本の小曲や童謡などを歌いもてはやされていますが、先生のもとで唱った私たちにとっては何ともひどい歌に聞こえてしまう(比べること自体がまちがいか?)。先生は真の意味で、「日本の心」を伝える音楽家という気がしています。

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