都民を感動させた“野の花”
山形南高OB合唱団
会員も年々ふえる
11日 三度目の演奏会開く
○・・・・山形南高OB合唱団の第三回東京演奏会がこの十一日夜、東・・・・○
○・・・・京の日本青年会館で開かれる。団員はすでに実社会にでて商・・・・○
○・・・・業や農業に従事、あるいはサラリーマン勤めの人びとであり、・・・・○
○・・・・この東北のなも知れぬ一合唱団の奏でるハーモニーの美しさ・・・・○
○・・・・は、ようやく都民の注目をひきはじめているという。しかし、こ・・・・○
○・・・・の合唱団が山形から上京して演奏会を開くに至った歩みをた・・・・○
○・・・・どると野の花に似たきびしい努力が秘められている。 ・・・・○
合唱団の芽ばえは昭和26年3月、裏手の千歳山の木々は、まだ春にはほど遠い。山形盆地の周囲の山々の峰には残雪が一面を覆っていた。こんな寒々とした自然の中にあって卒業式が終わったばかりの南高校庭には、希望にもえた若者たちが三々五々帰りはじめていた。その中に五人組の卒業生がいた。T、N、S、I、Aの五君の仲間だ。五人の足取りは、申し合わせたように重く、校舎や音楽室にいつしか舞いもどらせていた。音楽の森山三郎先生のもとで学んだ合唱の喜びは、教室での勉強といったものではなかった。生活のなかにまでくいこんだ、強い深い体験でもあった。卒業して進学するものもいる。この五人も、社会に出れば、やがては離ればなれになってしまうにちがいない。そう思うと彼らには、このまま別れてしまうのがおそろしくさびしく感じられてしかたがなかったにちがいない。
- 五人だけでも続けないか・・・・・・。五人のうちだれからともなくもれた。 -
そうだ。男声合唱団をつくろう。来年になれば後輩たちがいる。そのさきも、お
れたちのあとに続く連中がわんさといるじゃないか-。こうして彼らは4月には
いってから、うち五人を中心に南高OB合唱団をつくった。毎週一回の集まり
だ。みんなにはなんの野心もない。ただ自分たちが楽しめるものであればよい
。森山先生に学んだ方法で熱心に練習した。そしてハーモニーに関してだけ
は彼らのひとりひとりがきびしかった。それから一年たち、十人だったメンバー
は二十人にふえ、そのごも先輩をしたって入会する人が年とともにふえてい
った。
当初は近郊の小中学校まわりを試みるにすぎなかった。だが六年前の30年秋、南校でコーラス部に席をおき、中途で群馬に転校し、芸大卒業後、東京混声で活躍した増田邦明君という青年の口ききで東京演奏の機会をもった。しかし六年前の彼らの上京には、いろんな苦労があった。税務署などは、いなかの合唱団の上京ときいて、ずい分同情的だった。
その夜の日本青年館は、名も知れない東北の一男声コーラスをききに、か
なりの聴衆が集まった。千人あまりを収容できる会場は、盛況だった。合唱
団の先輩とか知人の関係者をのぞき、その夜の聴衆のほとんどが半信半疑
で幕のあがるのを待ったにちがいない。地方都市からのこの若いおのぼりさ
んたちの晴れ姿に、多分に同情的であったこともこばめない。タカをくくった
聴衆も、形式的な声援を送るだけの客もきっとたくさんいたにちがいない。と
ころが一部、二部とステージがすすむうちに、そういう態度を改めないわけに
はいかなくなった。プログラムをうずめる25曲、それにアンコールをふくめて、
そのハーモニーの美しい安定した姿に驚かされた。きわめて自然にひびくハ
ーモニー。刺激がないといえばなさすぎるくらい。天然自然のままの姿といっ
てふさわしいその合唱に、聴衆はなんの抵抗もなく、感動に誘いこまれてい
ったのだ。
この第一回演奏会のもようは音楽雑誌に“野の花”のごとくと題して大々的に掲載された。こうしてさいしょの礎石がうちこまれた東北の一隅に咲き誇るこの野の花合唱団はこの11日に多くの思い出を残した同じ日本青年会館で第三回の演奏会を開く。