月別アーカイブ: 2007年6月

ナス初収穫

わが家のナスが今年も食べられる時期になりました。昨日この写真を撮ったあと初収穫、弁当のおかずになりました。

    

ナス

 庭の一角にナスを植えるようになってから5年ほど、2・3本のナスの木がうまく成長すれば、私たちの暮らしの需要を十分賄えるほどです。しかし一年目こそたくさん収穫できましたが、その後は必ずしも十分とはいえない実り具合です。狭い土地の中で植える場所は移すようにしているのですが、やはり”連作障害”がおきているのでしょうか。近所の人に、「接ぎ木の苗にするといいよ」と聞き、今年は少々高い接ぎ木のナス苗を植えたのです。そのおかげか、今年はしっかり実ってくれそうです。

 ミョウガと青じそは毎年自然に生えてくれます。わが家のガーデニングはこんなところもあり、なかなかおしゃれなものになりません。

山形のさくらんぼ

分離唱の合唱が縁で知り合うことのできた山形の知人からサクランボを送っていただきました。山形のサクランボは初めてです。妹さんの友達の方が女一人手でほんの僅かつくっているもので、大事に育てているさくらんぼだそうです。品種は「佐藤錦」、大粒に粒ぞろいでいずれもよく熟し、味もgood!

 写真に撮ってもきれいですね。 ありがとうございました。

 

さくらんぼ

 

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エンジュの木とツタ

昨日から、やっと梅雨らしい雨の日がやってきました。よく降って全く外に出る状況ではないこんな日は、家の窓から撮った写真、エンジュにからまるツタです。

   

エンジュとツタ

  エンジュの木は床の間に使うとよいのだそうです。柱にしたのを見たことはないのですが、どうやらきれいな縞模様(?)がはいってオシャレだということのようです。家の裏に植えられたこの木が育ってきたところで、今は亡き伯父が床の間に使う程良い高さで先端を止めてくれ、現在まで太らせてきました。その木に自然にツタが絡まり、この時期は幹がツタの葉に覆われてなかなかの風情です。写真にして初めて、木肌に苔が生えていることを知りました。見ているようで見えていないものですね。

ユキノシタ

部落の家の裏にユキノシタが群生して咲いているのを発見しました。正直なところ、ユキノシタの花を私は知りませんでした。たくさんの簡素な白い花が咲いているのはなかなかいいものですね。

  

ユキノシタ

 ユキノシタといえば、花より葉の方が記憶に残っています。子どもの頃、やけどをしたとき、この葉をとってきて葉の裏の薄皮をはがして患部に貼り付けました。ひんやりとして気持ちよかったですね。火傷に効くという話はどの程度信じていいのかわかりませんが、わが家ではこのように実際にユキノシタの葉を使っていたのです。

休耕田の草刈り

 玉ねぎの収穫の翌日は休耕田の草刈りをしました。年に数回の作業です。いつも大変な藪になってからの草刈りで苦労するのですが、今回は少々早めだったためか随分と楽な草刈りでした。
 目を保護するための保護具を頭にかぶり、エンジン付きの草刈り機で行うこの作業は、結構孤独な作業です。だから、作業をしながらいろいろなことを考えます。自然農の方の話では、草刈り機による草刈りでは刈った草が均一に広がらず、おもわしくないとのことでした。自然農の会では柄の長い草刈り鎌を持ってきて、使ってみせてくれました。鎌による手作業の方が刈草が均一に広がるのだそうです。そういえば、草刈り機ではスジ状に刈草の山ができてしまいます。
 以前書きましたが、今回の休耕田には母が試しに雑草の中にジャガイモを植えて置いてくれたのです。この前このジャガイモを見に行ったところ全く見つかりませんでした。そんな話を母にすると、足の不自由な中を電動の車で見に行ったそうです。結局植えたジャガイモは猿に掘られてしまったとの結論に達しました。やはり、私たちの実家の部落での農業は大変だなと実感です。しかし今回草刈りをしていて、か弱いジャガイモの木を発見しました。危うく切ってしまうところでしたが、幸いにも気づいて残すことができました。どうやら猿が掘ってしまった後からまた小さな芽が顔を出したと言うことのようです。今度は猿にやられなければいいのですが?


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自然農の玉ねぎ

 昨日はちょっとだけ自然農の玉ねぎの収穫、大麦の収穫を体験しました。
 午前中は実家で母が普通に栽培した玉ねぎを収穫し、その荷を家まで運ぶのを手伝いました。玉ねぎは茎が寝てしまえば収穫時なのだそうです。猿の被害に悩まされている私たちの部落にあっては、猿の食害にあう前に収穫してしまおうといういことで、茎はまだ青々としていたのですが前述の通り茎が寝たので急いでの収穫でした。どの玉ねぎもしっかり太って立派なものでした。


 午後、長坂での自然農体験で自然農の玉ねぎの収穫をしました。園芸用らしき大きなフォーク状の道具をつかい、玉ねぎを土から抜いて丁寧に土を落とし、地面の上に並べていきました。午前中に実家で見た玉ねぎとは大違い、玉が全然太っていないのです。さらに太っていないながらも大小さまざまでした。

  「これは普通の玉ねぎとは種類が違うのですか?」
  「そんなことはない、普通の品種ですよ。太っていないだけでしょう。」

そんな会話をしながら丁寧に収穫していきました。掘り出した玉ねぎは根を南側に向けて並べて夕方まで乾かし、その後家に持ち帰るのだそうです。


 こんな体験の中でも様々なことを考えます。先日、母の通院の帰りに長坂の自然農園を見せようと寄り道してみました。私は広い範囲が自然農園なのを見て、またそれぞれが雑草の中で立派に育っているのを見て驚いたのですが、母はちょっとみただけで「やっぱりできが良くないね。」と言ったのです。どうも母達のように長年作物を育ててきた目で見ると、作物が均一に立派に育ってないとダメだと思ってしまうようです。そして昨日の自然農法の玉ねぎの収穫、「自然農の玉ねぎはこんなにも小さいのか」と感じ入ってしまいました。
 わたしは自然農の玉ねぎを批判する気持ちは毛頭ありません。むしろ自然に育った玉ねぎなら大小があって当然なのでしょうね。大きく均一に育つことは、商品としては大切なのでしょう。しかし、大事なのは大きく均一に育つことではなく、健全な生命として育つことなのでしょう。大きかろうが小さかろうが健全な生命を味わう、私もそんなふうになれますかね。

吹奏楽演奏会

文化祭の前日は吹奏楽の演奏会を聴きに行きました。県内ではなかなかのレベルのアマチュア吹奏楽団だそうです。曲目は、

  ≪第1部≫

      バッハ:幻想曲ト長調BWV572
グリーンスリーブス
コンサートマーチ「風と光の通り道」
時計塔が迎える朝

  ≪第2部≫

     音楽物語「パリのアメリカ人」
ラプソディー・イン・ブルー

 

高校の吹奏楽演奏会は聴いたことがありますが、本格的(?)な吹奏楽を生で聴くのは初めての経験でした。

ソノリテ・パンフレット

  演奏が始まる前に一人のクラリネット奏者が立ち上がり基音を出すと、各楽器が一斉に音を出し始めます。「あー、オーケストラと同じようにチューニングをするんだ。」と、無知な私はビックリです。

 幻想曲・・・・バッハの重厚なハーモニーを聴けるかと思ったのですが、ウーン?
コンサートマーチ・・・・やっぱりこういう曲は吹奏楽らしいよさを感じます。
時計塔が迎える朝・・・・この曲については説明がありました。この曲の元となった
絵があるのだそうです。「夜の風景、それから夜の2時3時と鐘の音が鳴り
やがて夜明けを迎える。」そんな内容でした。夜の世界の混沌とした音から
やがて夜明けを迎えて響きのよいハーモニーが響き渡る、聴いていても
「あー、夜明けだな」とわかりました。こんな説明付きの音楽を聴くと、夜中
に骸骨が起きあがりやがて踊り出す。更に更にこの踊りに骸骨が加わり賑
やかに、やがて夜明けを迎えてにわとりが「コケコッコー」と啼き、その声と
ともに骸骨がそそくさと墓の中に引き上げ、静寂が戻る。あの「死の舞踏」
とイメージをダブらせて聴いていました。
パリのアメリカ人・・・・語り手がストーリーを語り、その合間合間に音楽が挿入さ
れる。十分楽しめる内容でした。
ラプソディー・イン・ブルー・・・・この曲は吹奏楽とジャズピアニストとの共演でし
た。パンフレットには「新たな響き・・・・。ピアノと吹奏楽のコラボレーション
」と表紙にうたい、この夜一番の売りのプログラムだったようです。指揮者
が隠れてしまうかと思うようにステージの中央にピアノが置かれ(これは
ジャズでは非常に珍しいことだそうです)、共演が始まりました。奏でられ
る音楽にすっかり聴き入ってしまいましたが、フッと意識を取り戻して周囲
をうかがうと、聴衆全体がシーンと聞き耳を立てて聴いているようでした。
演奏後の語り手とピアニスト、指揮者との会話の中で、前日のリハーサル
とは随分演奏が変わってしまったことなどが語られ、大変な即興性をもっ
て演奏していたことを知りました。

プログラム以外にピアニスト、吹奏楽がそれぞれ一曲ずつアンコールとして演奏しこの夜の演奏会は終わりでした。
決して高くないチケットでたっぷりと楽しませて頂きました。感謝。

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文化祭

民踊

 以前話題にした地区の文化祭が開かれました。12:30開会でしたが、私たち文化協会の役員は朝8:30集合で、準備から後片づけまで丸々一日のお付き合いでした。上層部の苦言が功を奏したのか、観客も最後まで減ることなく、心配も払拭された文化祭でした。

合唱

芸能部門のトップバッターは「コーラス」、合唱好きの私は「一体どんな合唱をするのだろう?」と興味津々でした。曲目はロシア民謡一曲と「宗谷岬」、それから知らない曲を一曲でした。ピアノ伴奏付の二部合唱一七人(もちろん全て女性)、ソプラノは少し頑張ってしまうきらいはありましたが、アルトは素朴な歌い方でなかなか好感がもてました。後で聞いたはなしでは、近くでピアノと声楽の音楽教室を開いている先生に2週間に一度見てもらっているのだそうで、指揮もその先生でした。
基本的にア・カペラ四部でばかり唱っていた(遠い昔のことです)私には、コーラスといっても別世界のような感じがします。今回のような形のピアノ付き二部合唱は職場で余興的にやったことがありますが、二部では和音の響きというようなものが感じ取れず、「わからないな」という印象を持ったものでした。三部・四部では自分の音が自然に収まっていく感じがするのですが・・・・。

 でも決して今日のコーラスを否定するわけではありません。上手下手はよくわかりませんが、とらわれのない歌い方に、心のありように拍手です。

展示

会場の後方には展示部門の展示パネルが並び、絵画・写真・書・俳句・手芸・生け花などさまざまな作品が会場を盛り上げていました。楽しそうにすすめている多くの人たちの姿を見、日曜日もたまにはこのような事に一日お付き合いするのもいいものですね。

「暗記した昔話」?

 むかしばなしの素語りを中心とした活動をする団体があり、先日この団体がひらいた「おはなしのつどい」を地元紙が紹介した。


    「おはなしの会」が暗記した昔話披露


こんなタイトルの短い紹介文である。
 「暗記した昔話」・・・・、たしかにそうではあるが何とも味わいのないことばではないか。こんな無機的なことばの中に、記者の素語りへの関心の無さを感じてしまう。


 絵本の読み聞かせや小道具をつかったおはなしなど、昔話などを語るのにもさまざまな手法がある。しかし、何も小道具をつかわず小細工をしない「素語り」が何といっても空想の世界を駆けめぐるには一番のように思う。具象を見ないからこそ空想が広がる。語り口も、演劇的に語るのではない「素語り」がおはなしにはいいと思うのです。