月別アーカイブ: 2009年7月

温暖化に思う(その③)

 私に雨水利用の手ほどきをしてくれた方、今は他界されてしまいましたがこの方から聞いた言葉があります。(以前にも一度書いたかな?)
「あなたの家に降った雨は、天からあなたに与えられた貴重な資源です。」
つまり私たちの所に降った雨は、私たちのところで蒸発させることが大事ではないでしょうか。現在は雨樋に集められた雨も道路脇の水路に流してしまい、せっかくの貴重な資源を流し去ってしまっています。私たちの手元に貯蔵し、貯蔵しきれない雨は家の庭に浸透させ、やがてはこの庭から蒸散させることによってかなりの涼しさを手に入れることが出来るはずです。この地に降った雨をゆっくりとこの地で蒸散させる、こんなことがヒートアイランドの解決の手がかりではないでしょうか。
 はなしを少し大きくして水道や下水道のことを考えてみましょう。大型水道では水源ダムから取り入れた水がはるばると人工的な地下水路を通って私たちの家庭までやってきます。家庭で使われた水道水は「水質汚濁を防ぐ」という名目で再び地下に潜り、はるか下流の下水処理場までいって処理されたのち初めて環境水として川に放流されます。これは降った雨をその場所で蒸散させるという考えとは全く反するものです。町がアスファルト化・コンクリート化し降った雨をすぐに流してしまう都市化と合わせて、私たちの生活環境の近代化が間違った方向であったというふうにも思えるのです。

温暖化に思う(その②)

 昨日までの雨も終わり、今日からまた30℃超えの日々が始まりました。真夏の雨は何て涼しさをもたらしてくれるのでしょうか。雨がどうしてこんなにも涼しさをもたらしてくれるのか、それは次の2点でしょうね。
  ①雨が地面を直接冷やしてくれる。
  ②雨が止んだ後蒸発して、地表の熱を蒸発潜熱として奪い、熱をもっていってくれる。
このうち①は雨の日だけのことでですから、日々のことを考えると②が大変重要なのではないでしょうか。昔と比べて降水量が減っているわけでもないでしょうし、やっぱり最近の暑さと②は関係が深いのではないかと思ってしまいます。
 このことを利用した伝統的な暑さ対策に打ち水があります。窓に簾をかけたり窓に外に葦簀をたてかけたり、また打ち水をしたりして日本人は涼を求めてきました。そんなふうに涼を求める姿がまた私たちに涼をもたらしてくれます。美しい日本人の姿ですね。それに対して窓を閉め切ってカーテンもして、エアコンにより冷やしている姿、部屋の中が冷えている割には涼やかではないですね。
 実際、打ち水をするとかなり涼しくなります。でもその水、高い金を出して購入した水道水は使いたくないですね。ひとつの選択は雨水利用です。ただで手に入る水を有効に使わない手はありません。高校生の頃、下宿から学校までの町中を歩くと、沿道の商店の人達が側溝のふたを開けて長い柄のしゃくで水を汲んでは道路に撒いていました。そんな光景、今では見なくなりましたね。現在では町中の多くの水路にほとんど水が流れていないのではないでしょうか。
 私の親戚が20年ほど前に庭を芝生に変えました。そうすると家の中を通る風の涼しさが違うんですね。このとき植物の力を改めて知りました。地下から水をくみ上げて葉の裏から蒸散させる、この芝生のはたらきは私たちが井戸水をくみ上げて庭に散水することに相当します。もちろん水が気化するのですからこのとき蒸発熱を奪ってくれますね。我が家でも挑戦している最近はやりの「緑のカーテン」もその意図するところはだいたい同じ、地下から水をくみ上げて蒸散による蒸発熱によって涼しくしようというわけです。この効果、絶大ですね。緑のカーテンのある部屋は他の部屋に比べてかなり涼しく感じます。

バルコニーに届きました

我が家のアサガオは、ご覧のように2階のバルコニーのかなりを覆い始めました。梅雨明け後の暑い日も、この緑のカーテンの陰に隠れた部屋はおかげでかなり涼しく感じます。開花数も徐々に増えて、今日は2回目の100個超えです(開花数:110)。
アサガオ5-3

最近では、このように緑のカーテンの裏側(部屋側)でもいくつか開花するようになりました。裏側から眺めるのもいいものです。
アサガオ5-1
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ねむの木

あちこちに自生しているねむの木が花盛りです。私の住む小さな団地の入り口の斜面にも自生していますので一枚。
ねむの木

今年は近年では一番の色鮮やかさです。しかしカメラマンの腕がいまいち、これでも昨日撮ったのは没にして今日再挑戦したものです。むずかしいですね。本当はもっときれいなんだけどなぁ。
ねむの木2

砂山

 鉄骨の中に満月を見てひとり
 俳句を習い始めて、最初に二重丸を頂戴したのがこの句である。ビルの工事現場に立って、なんとなく句になりそうな風情を感じて詠んだものであるから、技巧は少しも用いていない。これまで俳句の良さなど少しも解しなかったのであるが、実際に作句してその楽しさがわかるようになってきた。
 コーラスについても同様である。聴くことによって背筋の震えを覚えるだけだったのが、ハーモニーを創造する側に立って、コーラスの本当の楽しさを体得したといえる。ソロと違い、幾人もの人間が自己を抑え歌い乍らも、そこから生れるもは、個人を超越した言葉では表現できない素晴らしい音楽なのである。この味を一度でも感じた人ならば、きっとコーラスの虫になるのではなかろうか。練習日を迎えるまで、一人ではどうにもならないもどかしさを感ずる今日この頃である。秋の夜更けに「砂山」を口ずさみつつ。
                              (以上、「みちのく」第1号より)

温暖化に思う

 昨日は朝から雨で暑さも一段落です。梅雨明けから数日猛暑日が続き、私達の職場では9時過ぎにはもう30℃を超えてしまうという状況です。何という暑さでしょうかね。地球温暖化は100年で1℃上昇というようなレベルですが、夏の温度上昇はそんなレベルではないように思います。これはやっぱり「ヒートアイランド現象」が主因なんでしょうね。
 自動車がやってくると、同時に熱風がどわっとやってきます。車内の熱を外に捨てて(車内を冷やして)その熱が自動車のまわりにまとわりついているのでしょうかね。同じように室内を冷やして室内の熱を外に捨てていますね。室内の温度が下がった分が屋外の温度上昇につながる、でもプラスマイナスゼロならまだいいのでしょうが、この作業を電気エネルギーを使って行っています。使ったエネルギーを100%目的に使うことはできません。何十%かは無駄になり熱に変わります。結局冷やした分だけ加熱されるのではなく、冷やした以上に加熱される。トータル的には冷房ではなく暖房、そこで
    「誰か、夏の暖房をとめてくれー!」
と書いている人がいました。
 私の学生時代(?十年前、1970年代)はそこそこ便利な時代で物質的にも満たされていたと思うのですが、甲府盆地の仮宿学生の中にエアコンを使っているという人がいた記憶がありません。しかし今はエアコン装備が当たり前、エアコンがなければとても夏が過ごせなくなっているのも事実です。
    「みんなでエアコンを使って、みんながエアコンを
     使わなくてはならなくなってしまった。」
ということでしょうね。こうしてみると「エアコンのある快適な生活」という私達の生活のひとつの目標が間違いだったといえると思うのです。そうして今猛烈に経済発展を続けている国々の人たちもまた「エアコンのある快適な生活」に向かって突き進んでます。温暖化問題って私達が突き進んできた方向が間違っていたんだということを私達に突きつけているのだと思うのでが、そこで私達がしなければならないことは今あるものを「省エネ家電にかえる」なんてことではないと思うんですよ。残念ながら、国が示している二酸化炭素削減目標に沿った生活モデルは「消費生活を変えずに、むしろ新しい消費を促す」なんていうふうに読み取れてしまいます。

くちなしの花

くちなしの花が咲きました。歌の歌詞では聞いていましたが、実際のくちなしの花がやっとわかりました。3年ほど前、知り合いからいただいて植えたこの木は、葉が出ては虫に食べ尽くされるということを繰り返して、なかなか花が咲くまでに至らなかったのです。

はじめて咲いたこの花、白さが目をひきます。
くちなし

「言葉のひびき」

 みちのく混声合唱団に会報がありました、その名も「みちのく」です。昭和38・39年ころの発行です(東京オリンピックが39年ですよ)。ホッチキス止め・ガリ版刷りで不鮮明のため判読できないところもありますが、人の手による会報の実感があります。
 この会報の中からいくつか紹介したいと思います。分離唱の合唱の大先輩方が当時どんなことを考えていたのか、そんな私たちの好奇心に答えてくれるかもしれません。
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    言葉のひびき
 遠くから何となくきれいなハーモニーが流れてくる。
 「きれいにハモってるね」「ほんとね」思わずそんな会話をかわし、しばし耳をかたむける。
 美しいハーモニーは聞いていて全く身の引きしまる思いがする。ましてやそれが自分達のつくり出したものであったなら、その感激はまたひとしおというものであろう。「ハモる」-私はこの言葉がとても好きである。学問的なことは知らない。外国語から誰かが適当にひっぱり出した言葉であろう。日本語にも、外国語にもない和洋折衷のあいのこ言葉。しかしそんな理屈はぬきにして私はこの言葉の持つかろやかなひびきが何とも言えない。たった一言のこの言葉は美しいハーモニーというもののもつ、複雑な感情を実に○○に言い表していると私には思える。
 みちのく混声では、よく「ハモる」という言葉を使う。始めのうち、私はこのことばには何ともなじめず意味は分かっていてもおかしな言葉だと思っていたものだった。しかし聞きなれ、そして自分でもこの言葉を使うようになると、今度は逆に、何とすばらしい言葉なのだろうと思えてくるのです。不思議と云えば不思議でもある。頭の芯にピッとくるようなすばらしい音の調和を聴覚に感じ、思わず「ハモっているね」と言葉を交わすときの・・・・その生き生きとした表情。その表情に「ハモる」と云う言葉のひびきはなんとぴったりしていることか。
 このように感ずるのは私一人だけであろうか-。いやそんなことはどうであろうとかまわない。
 ようやっと土台を踏みかためて、いよいよこれから大きく伸びようとする「みちのく混声合唱団」。
 大いにハモってハモって、万人の心をマヒさせるようなすばらしいハーモニーを作り出そうではありませんか。
 *  *
町はずれの家のうしろへ さびしそうに
あかい夕陽が沈んでゆく
昼の歓呼の声は おもむろにとだえ
厳粛な結びの詩句を唱えながら
おそくなって ほの青い遠空に
もう 夜が ダイヤモンドを振り撒く間
その残光は また ここかしこ
屋根の片隅にうろついている
・・・・リルケ・・・・
(以上、「みちのく」第1号より)