木下航志のコンサートの当日、私はほかの音楽の集まりに参加していた。佐々木先生のご家族を中心とした合唱の集まりである。
この日は賛美歌をはじめとするアカペラの合唱曲を長い時間歌った後、最後に手書きの楽譜のコピーが配布された。「これ、やりましょう」という曲はピアノ伴奏つきのフォーレの曲「ラシーヌ讃歌」だった。学生時代に先生の指導を受けた中では古いOBに属する私は、この曲の録音を聴いた覚えはあるが唱うことはできない。先生の娘さんがピアノの前に座り、この曲の練習がはじまった。しばらく前奏があり、その後合唱がはじまる。私は唱うことができないが、「あー、娘さんのピアノが聴ける。ラッキー!」と楽しみな軽い気持ちで聴きだした。しかし前奏が始まってすぐ、少し目が潤んだかと思うと、そのあとどっとあふれるように涙が湧いてきた。
音楽の感動というのは心で感じ、感性で感じる。そういうものを自身の認識の上で感じ取れるものだと思っていた。しかし今回の私の反応は、私の心や感性が感じて涙が出たのではなく、まったく自分の意識を素通りして、そのピアノの演奏にいきなり身体が反応しいきなり涙が湧いてきたととでもいうべきものだった。今までに経験したことのない私自身の反応に私自身が驚いている。
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月別アーカイブ: 2007年4月
木下航志
先日、山梨でも木下航志さんのコンサートがあった。しかし、私は残念ながら聴くことができなかった。コンサートに行った友人のブログに刺激を受け、わたしも彼の印象を少し書いてみたいと思う。
彼についてNHKで取り上げた番組を二度見たことがある。一度目は小学生の頃であっただろう。内容の詳細はよく覚えていないのだが、視覚に障害をもった彼の小学生になるかならないかの頃、音楽に出会い才能を開花していく。周囲の理解や援助もありストリート・ライブの活動をしていることなどを紹介していた。自らのピアノ伴奏でうたう彼のヴォーカルは、自己の心を開放しあるがままを身体いっぱい声いっぱいに表現するもので魅力あふれる音楽だった。
二回目の放送は中学生の頃だったろうか、変声期を迎え声の出ない彼は苦悩の時期を過ごしていた。単に声が出ないということだけでない心の中の大きな苦悩だったようである。その当時の苦しみの様子、それから長いトンネルを抜け出して演奏活動を再開するにいたったことなどを紹介していた。そして再びうたいだした彼の歌声は、やはりすばらしいものだった。
私も彼のライブを聴いてみたい。生の歌声を聴くせっかくのチャンスを逃した私は、今から次のチャンスを願っている。
文化祭
私たち、比較的新しい分譲地にも自治会があり、ことしは順番で文教(文化協会)の役員が順番で回ってきてしまった。今日はその初めての会合があった。
どこの地区もそうなのだろうが、この地区にも年一回の文化祭があり、さまざまな活動サークルの発表の場となっている。しかしこの文化祭を私は一度も見たことがない。だが、今年は一日文化祭のお手伝いと覚悟は決めている。
この文化祭、実はお客さんが非常に少ないのだそうだ。そのために、「これはとても地区のお祭りとは言えない、この地区の文化祭は止めたらどうだろうか。」という提案までで飛び出した。昨年の最後はコーラスだったのだが、メンバーがステージに立ったところ聴衆は誰もおらず、敷いてある茣蓙にむかって唱ったそうである。幼稚園児の発表があれば賑やかになるだろうと思い、そんな企画をしたところ、園児一人に両親・祖父母と4人はきてくれた、賑やかになって大変嬉しかった。しかし園児の出し物が終わったらサーッと引き上げてしまい、また一気に寂しくなってしまったそうである。
こういうことは、私たちの地域だけのことではない。以前住んでいた県内の大きな市の文化祭でも観客は少なく、出演者がお互いのステージを見るようにとの取り決めがあるにもかかわらず、最後の出演団体の時には観客席は本当にガランとしてしまう。やはり同じ悩みをもっていた。
体育祭といえば参加者も多く、運動神経の悪い人もそこそこ楽しめて盛り上がる。それなのに、この文化祭の低調ぶりは目に余る(実際には見たことがないのだが、そう聞いている)。この違いは何だろうか、何が原因なのだろうかと考えてしまう。
自然農園の菜の花
すべては光る
光る
光る
すべては
光る
光らないものは
ひとつとしてない
みずから
光らないものは
他から
光を受けて
光る
この詩も、坂村真民さんの「念ずれば花ひらく」の中にのっている。詩の後に、「この詩の生命は、みずから光らないものは他から光を受けて光るというところにある」と書かれている。
私もまた、この部分が好きだ。こんな詩から私は、素人の私達が触れた音楽の世界を想う。ただ聴き合って生まれるハーモニーを感じ、またそこから音楽を感じる。そんな心のありようがなんともいえずいい。音楽で自ら光り輝ける人は世の中でもごくわずか。しかし、こんなふうに聴き合って唱うと特別な才能のない人も音楽に触れられる。そんなこともあってか、
みずから
光らないものは
他から
光を受けて
光る
という部分がいいと思う。
「あらしの夜に」
先日、民放で「あらしの夜に」が放映された。原作は木村裕一さん、昨年話題になったアニメ映画である。
この話を初めて知ったのは、ある会で小学校の先生が子どもたちに読んで聞かせたということからである。この会ではいろいろな人が本を紹介jしてくれたのだが、「あらしの夜に」に子どもたちが聞き入る様子をうかがって、この本を読んでみたいと思った。そして私が読んだのはもう7~8年くらい前のことである。
小学校の先生が言うとおり、真っ暗闇の中でお互いに誤解しながらも会話がすすみ、羊の危機が過ぎ去るまでのハラハラドキドキがたまらなかった。
しかしアニメ映画では、このハラハラドキドキがほとんど感じられない。しかも「あらしの夜に」の続きが延々とあり、オオカミと羊の甘ったるい友情がくすぐったくて少々イメージダウンであった。
私としては、やはりこの話は「あらしの夜に」だけ、雨宿りが終わるまでだけがいい。そして真っ暗闇の中の情景を想像を膨らませながら話を追っていくのがいい。多分、誰かに読んでもらうのは一番なのではないかと思う。