月別アーカイブ: 2006年8月

森の音楽会でのいただきもの(その2)

 森の音楽会ではもう一つ、ここで知り合ったFさん達が山形で活動している混声合唱の録音を収めたCDもいただいた。


 このCDに収録されている曲目ははほとんどが讃美歌であり、私たちも以前歌っていた曲がほとんどだった。私たちの唱った讃美歌は歌詞の2番までというのが常だったが、この合唱団では最後までの全ての歌詞を歌っている。先生が指揮をされた合唱とは幾分感じが違うが、そのきれいなハーモニーに感心してしまった。
 はじめのころはそんなに感じていたわけではないが、何度か聞くにつれてそのきれいなハーモニーを実際に聞きたい、そういう場に身をおいてみたいといいう欲求が私の心の中に膨らんでいった。

森の音楽会でのいただきもの

 森の音楽会で知り合った方から、この方とは別の南高OBが自費出版した「相対音感」という本をいただいた。


 この本は、機関誌か何かに連載のように書きすすめたものを、一冊の本にまとめたもののようだ。「相対音感」とは、絶対音感ということばに対してつくったことばなのだろう。平均律に対して純正律、聴き会うことでハモることができることなど、私たちが経験し感じ取ってきたことなどをていねいにことばにして書かれていた。どうやらその方の所属している合唱団の通信への連載をまとめたもので、団員の方達に少しでも聴き合って唱うハーモニーをわかってもらおうと書かれたもののようだった。

K工事店との接触

 これだけ業者に冷淡にされるとさすがにめげてくる。電話をするのもおっくうになってくるのである。しかし、とにかくA社から聞き出した業者であるK社に電話をしてみることにした。電話にはご主人さんが直接出た。下水道への接続と同時に浄化槽の雨水槽への転用の話をすると、「それは立派なお考えですね。」と好意的である(多くの業者には最初からバカにされた)。そこで「これからうかがいます」といい、その日のうちにK工事店を訪問した。こちらの話をよく聞いてくれ、また関心をもってくれて感触良好である。

森の音楽会(2004.8月)

 Oさんは佐々木先生のピアノのお弟子さんで、先生と私たちの団体との橋渡しをした人だと聞いている。はじめの頃の先生の指導にはよく一緒に来られ、ピアノの演奏を聴かせていただいたことも度々だ。この方が2年に一度、山梨の避暑地のペンションで「森の音楽会」を開く。森の中の感じのいいペンションで、室内からもガラス越しに森がよく見えるホールにピアノがおいてある。友人からこの音楽会の情報をいただき、私たちはこれを聴きに出かけた。
 
 コンサートは独唱・ピアノ・カンテレ(フィンランドの民族楽器)と多彩な内容で、Oさんがいいなと思った方に出演をお願いしたのだという。南高OBの大ファンであったOさんは今でも山形の方と交流があり、このときも2人の南高OBがお手伝いに見えていた。一人の方はピアノ調律師でコンサート前のピアノの調製を、もう一人の方は録音・録画を担当していた。

 このときの演奏会で特に印象に残っているのは、カンテレのやさしい音色だ。小さな音だが、会場の人全員がそのやさしい音色の中に浸ってしまった。

 演奏会の後、多くの人は帰り、残った内輪の人だけで食事をしながら話が弾んだ。この中には学生時代の友人夫妻もいた。皆合唱を楽しむ人たちで、知っている讃美歌を片っ端から唱って楽しんだ。南高OBのFさんとはこの時知り合うことができた。私たちの男声仲間では、「いつか山形に行ってみようか」などという話も出ていたくらいなので、ここで山形の方と知り合えたのは大変うれしいことだった。

A業者との接触

 このあと、下水道接続のための町指名業者の一覧から2社ほど電話で打診したが、相手にされなかった。
 A業者は私の住む町内にある設計業者で、「○○企画設計」という名称から先進的な取り組みについても応じてもらえるかと思い直接業者を訪ねた。しかし、その対応は冷淡であった。

  「浄化槽の壁にこびりついた汚れは、とろうと思って取れるものではないよ。」

といわれ、それでも見積もって欲しいと話すと、

  「うちで工事をさせると約束できるのなら見積もりをする。見積もりにだってコストはかかる、うちのような(小さな)ところはそうでなければ見積もりはできない。」

とのことだった。そもそも見積もりというのは、各社の工事見積内容や額を比較してどの業者に依頼するかの参考にするためのものである。その業者と約束してしまうくらいなら見積もりの意味はない。業者の方こそ見積もりの意味が分かっていないのではないかと、腹立たしい思いだった。そこで、「おたくにお願いします」とも言えず、「また検討します。」と言うしかなかった。


 要するにこの業者も全く乗り気ではなかったということだが、こんなことにも応じてくれそうな業者はないかと聞いてみた。そして、「あの業者ならひょっとすると関心を示すかも知れない・・・・」という情報が得られたのが、ここでの最大の収穫であった。業者にとって未知の内容は、確かに業者自身が関心を持ってくれないことにはすすめることのできないことではある。

猫はネズミをとらない

 今は自宅で猫を飼う家庭も少ないでしょう。私の家も飼ってはおりません。そして多分多くの方は、「猫はネズミをとる」と思っているのではないですか。


 子どもの頃、私の家の周囲では大抵の家で猫を飼っていました。もちろん放し飼い、そして障子紙には一箇所穴をあけて・・・・。私の家の猫は「チー」という名前で、よくネズミをとるネコでした。ネズミを捕まえると生きた状態で口にくわえて飼い主のところに見せびらかしに来る。居間にくわえてきて、そこで手放し(口放し)、部屋の中で逃げさせては追いかけて捕まえる。さんざん遊んだのち、私たちの見ているところで食べてしまう。見ようによっては残酷だが、しかし当時の私たち人様の間ではこのようにネズミをよく捕ってくる猫がよい猫でした。収穫の多いときには食べきれないネズミを私たちの寝具(布団)の下に隠しておき、これをまた私たちのいるときに引っ張り出して食べたものでした。


 当時、このように立派な(?)猫はよくネズミをとったものですが、一方でネズミを全くとらない不出来な(?)猫もいました。ですから、「わが家の猫はよくネズミをとる」というのはひとつの自慢でもありました。


 私たちが成長するにつれて科学技術もすすみ、猫に頼らなくともネズミを駆除することができるようになりました。要するにネズミの毒餌です。これなら、飼い猫の当たりはずれにかかわらず、どの家も天井裏のネズミの音から開放される。ありがたいことでした。


 ところで、出来のよい猫はこのように人間が猫よりも毒団子に頼るようになったことも知らずにねずみをとり続けました。出来がよいようでも、ねずみのおなかの中に毒団子がはいっているかどうかを見極められるほど優秀ではありません。ねずみの毒は猫の毒、毒入りねずみを食べた猫は死んでしまう運命にあります。その結果、出来のよい猫の血筋はおおかた絶えてしまい、今繁栄しているのはねずみを捕らない猫なのです。


 科学技術は出来のよい猫だけを選んで駆逐してしまいました。今は動物図鑑に次のように書くべきです。


    「猫はネズミをとらない。」

母校合唱団演奏会(2005.12月)

 2005年12月、久しぶりに母校合唱団の定期演奏会を聴いた。コンクール全国大会に出場するほどの合唱団が宮崎駿アニメの曲のメドレーなどを演奏するとなかなか楽しめる。声がよく、洗練した合唱でしばらくは感心して聞き入っていた。しかし演奏がすすむにつれ私の感覚がだんだん変わってきた。十分きれいなハーモニーだと思うのだが、パートごとに音をとっている合唱だと感じはじめた。かなりきれいなハーモニーのようでも聴きあって唱ってきた私たちの合唱と本質的に違う。音楽もよく登山にたとえられる、どんなルートを登っても最後に辿り着く山頂は同じであると。この団体の合唱は、いわゆる合唱の練習方法で音楽の山の高みまでほぼ辿り着いたのだろう。しかしそれは、私たちが登ろうとした山と全く別の音楽の山であることをここで実感した。


 この演奏会には私の知っている二人のOB(いずれも先輩)が県外から聴きに来ており、偶然会ったわたしたちは並んで座り一緒聴いていた。演奏会終了後、一人の方はレセプションに参加すべく残ったが、もう一人の方はそのまま帰るというので駅まで自家用車で送った。この方は演奏会に大変満足している様子だった。私は上記の感想を述べたが、この方は「佐々木先生の合唱の下地があって、現在の(素晴らしい)演奏がある。」といった考えであった。この方は私たちより先輩で、佐々木先生の招聘には力を尽くしたが、先生がみえるようになったときには卒業してしまった人だ。分離唱による音感合唱にも理解があり、増田順平さんとも若干の交流があるという。今も情熱を持ち続けている様子がうかがえた。

あまがえる

 わが家の雨水水槽の水位計には、バラアーチを利用している。そのアーチには薔薇ではなくテッセン(クレマチス)を絡ませているが、まだまだ十分には茂っていない。そんなアーチの骨組みの上に今朝、チョコンとあまがえるがうずくまっていた。その様子がかわいいので急いでカメラを家から持ち出し近づいて撮影したが、逃げもせず収まってくれた。