2005年12月、久しぶりに母校合唱団の定期演奏会を聴いた。コンクール全国大会に出場するほどの合唱団が宮崎駿アニメの曲のメドレーなどを演奏するとなかなか楽しめる。声がよく、洗練した合唱でしばらくは感心して聞き入っていた。しかし演奏がすすむにつれ私の感覚がだんだん変わってきた。十分きれいなハーモニーだと思うのだが、パートごとに音をとっている合唱だと感じはじめた。かなりきれいなハーモニーのようでも聴きあって唱ってきた私たちの合唱と本質的に違う。音楽もよく登山にたとえられる、どんなルートを登っても最後に辿り着く山頂は同じであると。この団体の合唱は、いわゆる合唱の練習方法で音楽の山の高みまでほぼ辿り着いたのだろう。しかしそれは、私たちが登ろうとした山と全く別の音楽の山であることをここで実感した。
この演奏会には私の知っている二人のOB(いずれも先輩)が県外から聴きに来ており、偶然会ったわたしたちは並んで座り一緒聴いていた。演奏会終了後、一人の方はレセプションに参加すべく残ったが、もう一人の方はそのまま帰るというので駅まで自家用車で送った。この方は演奏会に大変満足している様子だった。私は上記の感想を述べたが、この方は「佐々木先生の合唱の下地があって、現在の(素晴らしい)演奏がある。」といった考えであった。この方は私たちより先輩で、佐々木先生の招聘には力を尽くしたが、先生がみえるようになったときには卒業してしまった人だ。分離唱による音感合唱にも理解があり、増田順平さんとも若干の交流があるという。今も情熱を持ち続けている様子がうかがえた。