月別アーカイブ: 2006年12月

手づくり年賀状

 わが家の年賀状はいまだに版画である。もう20年ほど前になるだろうか、「プリントごっこ」という簡易印刷機が爆発的に売れた。製造元の某社はこのおかげで一躍有名企業になったはずだ。この頃、年賀状を版画で印刷している私に、「今時プリントごっこのない家があるのけー」と軽くあしらわれた記憶は今も鮮明である。

 その「プリントごっこ」による年賀状も最近はほとんど見なくなってしまった。「プリントごっこ」もパソコンと家庭用のカラー・プリンターの普及により、ほとんどの家では物置の奥に眠ってしまったようだ。

 そんな中、わが家は今年も時代遅れの版画に取り組み、昨日やっと刷り上がった。年末のわが家の一大行事である。12月になる頃書店に行き年賀状本を漁る。目当ては一つ、「版画に使えそうな見本はないか」ということである。一番よさそうだというものが載っている本を一冊だけ買ってきて、それをまねて版画を作成する。最近はパソコン印刷用の年賀状本が豊富にあり、素材もたくさんあるので助かる。パソコン用のものなら、原画を左右反転させるのも容易で、これもまた版画には便利である。以前は水性絵の具を使っていたが、刷っていると版の溝に絵の具が段々たまってくる。たまった絵の具が、時には印刷ハガキにベトッとのってしまうことがある。だから何枚か刷ると、溝にたまった絵の具を掃除してやらなければならない。ところが、私の友人:Iさんはいつもきれいな版画年賀状を送ってくれる。「どうしてIさんの年賀状はきれいなのだろう」と思いつつ自分の版画には手こずっていたが、ある年、油性の版画絵の具の存在を知った。それ以来、溝にたまる絵の具に悩まされなくなった。

 ゴム版もまた大事な要素の一つだ。以前はホームセンターなどで買っていたが、ある年画材店で買ってみた。一見安っぽく見えたこのゴム版が、柔らかくて実に彫りやすい。細かな部分があるときは断然このゴム版に軍配が上がる。しかしこのゴム版、2年ほど前から画材店の店頭にもなくなってしまった。今年お店の人に聞いてみたところ、「その会社、なくなってしまったんですよ。」とのことである。このような使いやすい材料が消えてゆく、時代の移り変わりである。

「食品の裏側」

食品の裏側

「食品の裏側 ~ みんな大好きな食品添加物」
安部 司 著

 今年、評判になった一冊であり、私もこれを読んで唸ってしまった一人です。

今、私たちは「飽食の時代」に生きています。日本のカップラーメンは海外のそれに比べて格段においしいのだと聞いています。日本に滞在し就労している海外の人たちからも大変評判がいいそうだし、私自身もなかなかの美味しさだと思っています。この本は、著者の講演会でとんこつスープを添加物を組み合わせて作ってしまい、会場のいぶかしがる聴衆に試食してもらい「本当にとんこつスープだ」と驚かせるところからはじまります。食品添加物のトップセールスマンだった著者、同時に子をもつ親の良心から自らの仕事に疑問を持ち、食品添加物の洗礼に浸かってしまっている現在の食事情を見つめている著者の文章には説得力があり、一気に引き込まれ短時間で読了できる本です。まだ読まれていない方、一度読んでみませんか。

山形南高合唱部

 今回の森の音楽会では、南高OBから南校の合唱のことも聞いた。南高の合唱部員の多くは校歌に惹かれて入部するのだという。

 山形南高は男子校である、入学式といえばどこの学校にも式次第の中に必ず「校歌斉唱」がある。しかし、山形南高のそれは「校歌合唱」だったそうだ。この学校の校歌は三部合唱、もちろん男子校なのだから男声三部合唱とのこと。上級生のいない入学式に校歌の歌える人はいない。式がすすんでこの「校歌合唱」になると、南高合唱部がぞろぞろと前に出てきて合唱が始まるのだそうだ。佐々木先生から感化され分離唱一筋に合唱指導・音楽指導をしてきた森山先生が育ててきた男声合唱が新入生を迎えてくれる。なるほど、「校歌に惹かれて入部する」というのもうなずける。

 私は学生時代に、ある大学(の合唱団)に我々の合唱団のチケット販売を依頼に行ったことがある。この合唱団の男性は少なかったが、夜遅くまで下宿で話して帰ってきた。そして、その男性の中の一人は山形の出身だった。そこで「南高OB」のことを話題にしてみた。その人の話では、「あの合唱団は変わっている」という評価だった。

 山形には森山先生と同じ時代に、コンクールで名を馳せた合唱指導者がいるそうだ。そういえば私はその方面には無関心であったが、友人から「山形西高の・・・・」なんて話を聞いたことがあった。森山先生が分離唱指導でハーモニーの合唱を育てているとき、すぐ隣の学校では輝かしいコンクールの成果、なんと皮肉なことだろう。私たちにとっては輝かしい光を放っている山形南高とそのOBの合唱、それを育てた森山先生、田島さん、そして佐々木先生。しかし今開設されている山形南高のホームページにもその痕跡はない。あの輝かしい合唱の歴史を発信していただけないものだろうか。

かやの木山(森の音楽会 その5)

 今回の「森の音楽会」ではメゾ・ソプラノ独唱の「かやの木山」を聴いた。学生時代に混声合唱でよく唱ってきた曲だが、山田耕筰が作曲した本来の形はこういうものなんだと、改めて新鮮な気持ちで聴き入った。
 それにしても、この曲も懐かしい。この曲も私の身体に染みついている。


 山間の私の部落を少し奥へ歩いていくともう一つの部落があり、ここに親戚の家がある。この親戚では若い人は県外に出てしまい、おばあさんが暮らしていた。農業をしていた両親は、昼の間よく私をこの家にあずけたということなのだろう、子どもの頃夏はこの家によく行っていた。この家には、当時はもう珍しかったと思うが、囲炉裏が切ってあった。家の中で火を燃やすため天井はすすけて真っ黒だった。その天井からじざいかぎがおりてきており、その先の鍋ややかんを吊しかえて湯を沸かしたりみそ汁を作ったりする。おばあさんのそろそろとした動作で、灰のたまった囲炉裏に薪を少しずつくべて火を燃やしていた。
 この家にはもう一人、一つ前の代のおばあさんが暮らしていた。かなり高齢だったが、私を見るとにっこりとしてくれた。言葉を交わすことはなかったが、毎日黙々と働き、いつも薪を家の中に持ち込んでは火を燃やして炊事をしていた。山家のおばさといえばむしろこちらのおばあさんの方がぴったりとくる。


 私にとっての山は、農作業のない冬に両親の山仕事についていった記憶だ。雑木林を切り倒し、倒木の太い部分は程々の長さ(3~40cm)に切りそろえ、程々の太さに割って、金属製のたがに詰めて束にする。これを買い取ってもらうのが山間のわずかな現金収入だった。親が束ねた薪を一把か二把背負ってトラックの来る道まで出すのが子どもの仕事で、「薪背負い(まきしょい)」といっていた。太いよい部分はこうして売ってしまい、残った細い枝は山で集めて積み重ねておく。一年後にはすっかり枯れてのこぎりも使わず手足で折ることができるようになる。これを折りそろえ、ワラ縄で束にして持ち帰る。これがわが家の燃料で、ご飯も炊くしみそ汁もつくった。そだ焚き・柴焚きのそだや柴は、山から採ってくるところからわが家の生活であった。


 昨日から「かやの木山」の歌が頭の中で演奏されている、もちろん混声合唱で。頭の中の演奏では現実の演奏と異なり一段と歌詞を味わってしまう。この曲に唱われている詩の、私にとっての原風景とでもいえるものが、親戚のこの囲炉裏だったり山仕事についていったときの情景だったりする。


かやの木山
        北原白秋作詞 山田耕筰作曲 増田順平編曲


    かやの木山の かやの実は
    いつかこぼれて拾われて
    山家のおばさは囲炉裏ばた
    そだ焚き 柴焚き あかりつけ
    かやの実かやの実 それ爆ぜた
    今夜も雨だろう もう寝ようよ
    お猿がなくだで はよ寝ようよ

再度、木村秋則さんのこと

 番組の後、「木村秋則」さんをキーワードに検索してみた。前々からのページがあったり、番組の予告をしているページがあったり、また番組の感想を書いた人がいたり、これはもうたくさんの情報が得られる。以下のURLでも長い文章で木村さんのことが紹介されているし、番組では紹介されなかった話も載っている。

        http://www.kagaribi.co.jp/15-4.html

 この文章の冒頭には、「農薬を撹拌するのが子ども時代の手伝いだった」と記されている。こんな文章を目にすると、私たち自身の子どものころも思い出す。私の家は長い間ビールの原料であるホップの生産農家だった。蔓性の植物であるホップがある程度しげると定期的に消毒をするのだった。消毒は1~2週間に1回くらいだったと思う。畑の脇に浴槽よりも大きい水槽があり、その中に消毒液であるボルドー液をつくる。石灰はどうしても沈んでしまうので、これをかき回すのが子どもの役目だった。先日の番組中の手消毒と同じようにホースの先についた噴霧口をもって、畑の中を端から端まで消毒して歩く。一つのさくが終わるとホップのつるの間をくぐって次のさくに移る。消毒をする父は噴霧口をもって移動するのだが、ホースを次のさくにたぐり寄せるのはまた子どもの仕事だった。薬剤をあまりかぶらないようにと、私たちもひさしの広い麦わら帽子をかぶっての作業だった。父の使っている麦わら帽子は消毒剤のボルドー液で真っ青だった。ホップ畑の脇には養蚕のための桑畑があった。両親は消毒が蚕に影響を与えぬようにと、散布時期など気を配っていた。

 前記のページには、「この農薬を散布した後には、リンゴ畑の周辺にドクロ印の描かれた三角旗を立てることになっていたんですよ。」なんて文章も見受けられる。ホップ畑でも、寄生虫を駆除するための茎への塗り薬を塗ったとき、周囲に注意を呼びかける表示を畑の周囲に表示していた。

 当時に比べれば消毒剤など周囲や健康への影響を考慮されてきているとは思うが、この文章に語られている光景は科学農法ではいたるところで当たり前のように行われていることだろう。そこで育った私たちも、特別な疑問も持たずに大人になってしまった。私は今でこそ、そのことについて多少の疑問も抱くようになってはいるが、その先に踏み出しているわけではない。生活に追われつつも本質的なものに真正面から取り組んで長年苦しみ、そして道を切り開いた木村さんの偉大さを思わずにはいられない。

NHKにひとこと

 NHKのナレーションが気にかかる。リンゴ農家の木村さんを「木村は・・・・」と呼び捨てで語っていた。長い苦しみの中でも強い意志を持ち続け自然栽培のリンゴを結実させた、常人にはとても到達できない領域に踏み込んでいるこの方をどうして呼び捨てにできるのだろう。この語り口は大ヒットした「プロジェクトX」の流れかも知れない。しかし、番組の語り手が敬語を使って尊敬を示さずにどうしてその尊さを伝えられるのだろう。ニュースの中の語り口調にも度々違和感を感じている。最近のNHKは何か変だ。

リンゴ農家・木村秋則さん

 今日のNHKテレビ「プロフェッショナル」について、毎日新聞の以下の予告があった。


   青森の農家・木村秋則さんが作るリンゴは、腐らないことで評判を呼んでいる。木村さ
  んは日本で初めて、農薬に頼らないリンゴ作りを成功させた。リンゴ作りの哲学は「育てな
  い、手助けをするだけ」。リンゴの生命力を引き出すために、畑をできる限り自然の状態に近
  づける。そこには、人と自然の魂の対話がある。木村さんの農業指導を通して、農業と人に
  対する愛情と情熱に迫る。


 希望通りこの番組を見ることができた。「プロフェッショナル」では初めて農業を取りあげたそうだ。若い頃大規模な科学的栽培を行っていたが、健康への影響もあり、そんなとき出会ったのが福岡先生の自然農法の本だったそうだ。この本を何十回読んだか知れない、「これでリンゴをつくろう」との強い決意で始めた自然栽培が実をつけるまでに8年かかったこと、その間の苦しみなどを紹介していた。そんな苦しい日々の話は、以前見た川口由一さんの自然農法の番組でも紹介されていた。自然農法に取り組む人たちの強さには本当に驚かされる。「すごい人がいるんだなー」という思いで最後まで見た。

 番組紹介にもあったが、木村さんのリンゴは腐らないそうだ。ここのリンゴを料理に使っている東京のシェフもそういっていた。スタジオに木村さんが登場したが、そこに2年前のリンゴが皿にのって出てきた。やはり腐らずにしぼんで、スタジオの聞き手は「お菓子のようだ」と言っていた。

 私の友人のお母さんはみかんの有機栽培に取り組んでいて、毎年そのみかんを送ってくれる。みかんの皮はあざだらけだが味が濃く、そして長持ちする。市販のみかんはすぐ腐ってしまうのだが、このみかんは日が経つと皮がしぼんできてしわしわになり、さらには外皮が薄くなってピタッと貼り付いたように固くなる。しかしその皮をむくとみずみずしいみかんが味わえる。友人のみかんはこんなふうに何ヶ月も味わうことができるのだが、リンゴが長持ちするのもこれと同じなのだろうか。自然のみかんは、もいだ後もこのようにして呼吸をし、しぼんでいって内の生命を守っている。もいだ後もみかんは生き続けていると思うのだが、自然のリンゴもきっとそうなのだろう。

ケーナ(森の音楽会 その4)

 ケーナの演奏はピアノ伴奏で行った。演奏会に先立ち、何回かあわせて音楽会にのぞんだとのこと。ケーナは竹でできた縦笛の民族楽器で、現地ではみんな自作しているのだそうだ。奏者は女性で、何年間か中米に渡ってこの楽器を習ってきたという。演奏の合間合間に現地での話を交えて楽しい演奏がすすむ。民族衣装らしきものを身にまとったこの奏者の話や演奏を聴いていると、「音楽家というのは自由人なんだな」と思う。あちらではみんな質素な暮らしをしている。そんな暮らしの中で夕方になると家族が集まり、毎日決まったように父親がギターを取り出して弾きながら歌うという。そんな姿に「豊かな生活とは・・・・」なんてことを思ったそうだ。「コンドルは飛んでゆく」も聴いた。西洋人に侵略されても魂は支配されない、そんな誇り高い精神の象徴的存在がコンドルなのだそうだ。そんな話を聞いてからこの曲の演奏を聴くと、力強い曲に聴こえてくる。

松居直さん講演会


 家内にすすめられて、松居直(まついただし)さんの標記の講演を聴いた。 松居さんの講演は3年ほど前にも一度聴いており、今回は2回目だった。前回の講演の記憶はもうわずかだが、そのはなしに引き込まれた印象は強い。
 大学生とのこんな会話が合ったそうだ。
    「絵本はひとに読んでもらうものです。」
    「大人になってもですか?」
    「そうです。」
そして大学生に絵本を読んであげたところ、学生も「絵本てこういうものだったんだ。」と納得したそうだ。
 同じ絵本を何度も何度も読んであげる大切さや、素晴らしい絵本の紹介など盛りだくさんだった記憶がある。


 今回の講演でも松居さんの言いたかった核心も同じものなのだろう。はなしを聴きながら前回の記憶がよみがえってきた。
    「ことばは親から子につたえるもの」
そんなことが今回の中心テーマだったように思う。子どもが2~3才のころ、子どもは毎日同じ絵本を読んでもらいたがる。そして毎日読んでやっていると、そのお話を丸ごと憶えてしまう。松居さんの言葉では、「丸ごと食べてしまう」のだそうだ。そしてこの能力は文字が読めるようになると消えてしまう。こんな話がワンフレーズ話し終わるごとににこやかな笑顔を見せる。松居さんは自身の家族の絵本を通した幸福感を語り、聴いている人たちはそれに共鳴した、そんな講演会であったように思う。


 これは又聞きの話だが、以前の松居さんの講演会でのはなし、

    最近、息子から、
      「非常に印象的に自分の中に残っている言葉の世界がある。
      それはおやじがよんでくれた本なのだけれども何の本かわかるか?」
    と聞かれた。
      「おやじはその本を読んだことすら忘れている、だけど僕は憶えている。」
    というんです。『しずかなおはなし』でした。その
    言葉とイメージとリズムとこの言葉の世界と
    いうものがはっきり自分の中にある。自分が何かを表現しようとするとき、その力となる。」

    というんです。そしてそれは親父の声で残っているのだというんです。そういうふうに子ども
    の中には、読み手の声で残っていくのです。

こんな風に子どもの中に親の読んで聴かせた言葉のリズムが生き続けている。何て素晴らしい親子のありようだろうと思う。