「我々が結束する時、多くの共同事業に於いてな
し得ない事はほとんどない。しかし、分裂するなら
ば我々はほとんど何事もなし得ないのである。」
これはあの「市民諸君」で始まる故ケネディ大統
領の就任演説の中の一文である。
* * *
私が合唱を始めた動機は別にない。そして現在合
唱を続けている確かなる信念もない。現在の私にと
って確かな事は、ただ合唱の世界から逃れる事はど
うしても出来ないということだけである。私にとって
合唱の世界に入り、そこで生きている事は、自分が
この世に生まれ出で、この世で生きているという事
と全く同じなのである。動機があって生まれたので
もなければ目的を与えられているわけでもない。
それでもなお、生きる事から逃れられないからであ
る。そこで私は自分の人生に意義付けをしてみた。
その発端は過酷な受験戦争に敗れた時にある。何故
自分は勉強しなければならないのか。教養を身につ
けるために? 技術を習得するために? 自己の将
来を勝ち取るために? 社会の役に立つ人間になる
ために? 云々。理由は沢山ある。しかしどの理由
も自分には何の理由にもなり得なかった。勉強する
目的、それは究極に於いて、何のために生きるかと
いう事に還元されてしまった。生きる目的がわから
ない以上、勉強する目的もわかり得ないのである。
何故生きる?
生きる目的はありはしない。だが生きる目的は逃
れ得ないこの人生を生きる事にある。
人生の意義、それは万人の顔形が皆違うように一人
一人異なっている筈である。そして自分が得た答え
は“人生の意義とは、うまく生きる事である”とい
う事であり、そのために自分はその周囲にあるもの
を利用するのであり、勉強する事も金を得るという
事も、全ての事が自分のために存在するのである。
そう考えた時に自分が合唱を始めた動機も、合唱を
続ける信念も、実は立派に存在していたのである。
ただ“うまく生きるために”
長い歴史の間に私以上の利己主義者は沢山いた。
その代表は何といってもキリストであろう。父母を敬
え。人を裁くな。隣人を愛せよ。報いを望まで他人
に施せ。その他全ての教えが我々に利己主義者で
あれと説いている。そうしなければ自分が損をする
からである。たとえば最後の“報いを望まで他人に
施せ”について言うと、他人に力を貸して損をする
と思ったらやらなければ良い。しかし愛する者のた
めに献身的努力をする事がいかに自分の喜びとなる
か知っている人も多いであろう。他人のためにする
事は一手段に過ぎず、本当の所は、自己の喜びを勝
ち得るためにある。更にもし報いを望んだ時には、
それは悲劇を生むし、或いはその可能性が大きい。
一方報いを望まない場合には悲劇を生む事もなく、
あるとすればそれは喜びそのものである。他人を憎
んだりしたら損をするのは自分に他ならない。常に
背後に暗い影がつきまとうだけである。隣人を愛す
るのは自分の得。恋人が沢山いるようなものだろう。
全てその人のためにあるのだと説いた事が、キリス
トの教えが二千年もの長い間消えてしまわなかった
ばかりか現在も尚盛んである理由であろうと私は思
う。
私達が合唱する理由は、各人の人生をうまく生き
るためにある。そのために合唱を利用してほしい。
だがその利用法を間違わないでもらいたい。それを
明示するためにケネディの言葉を借りよう。
『わがアメリカ国民諸君、諸君の国が諸君のために
何をなし得るかを問い給うな。諸君が諸君の国のた
めに何をなし得るかを問い給え。』
ということである。“みちのく”から得る事のみを
考えれば、失望という結果に導かれてしまうであろ
う。しかし、“みちのく”のために自分は一体どん
な事が出来るであろうと考え、そう努めるならば良
い結果が、少なくともその努力の過程に悦びがあり、
更にすばらしい合唱を創造し得た時にこそ、努力に
対するあり余る程の報いが完全に支払われる事にな
るのである。
* * *
考えてみるに、佐々木先生から現代が如何に混乱
しているかを聞くことが度々ある。横領、交通事故、
殺人、火事或いは地震や台風等の天災も、貧困、戦
争と数え上げたらきりがない。
室町時代という戦国時代を人はよく乱世と云うが、
その混乱した世の中でなぜ親鸞が生まれ世阿弥が出
たか。今私達はその時代を乱世と呼んでよいのか考
えてみる必要もあろう。現代に於いて親鸞や世阿弥
ほどの人が生まれてないその理由がもしあるとした
らそれは、現代人は心をむなしくして人間を見極め
ていく様な生き方を誰一人としてしていないからだ
と思う。様々な考えを持つ人間が形成している社会、
それは戦国時代と何ら異なることはないであろう。
ある意味では現代より室町時代のほうが、強く人間
の生への執着する感ずる。肉親が目の前で殺され、
家が赤い炎につつまれ、家族が散り々りになり、一
人で生きた私達の祖先・・・・。現代生きている私達に
そうした祖先の血が流れていないと云えるだろうか・
・・・。血は確かに流れている。その時代に生きた日本
人(多くは平民なのだが)必死になって祈った。そ
んな祈りは現代にあるのだろうか? 無いとは思わ
ない。見失ってしまっているだけなのだ。親鸞は自
分が生きている世を良くしようと思った。そしてそ
れを実行した。それはあまりにも高い理想に思えた
であろう。しかし、その理想をかかげて生きて行く
親鸞の姿に真の人間の姿を人々は見いだしたのだ。
其時初めて「南無阿弥陀仏」という祈りが発せられ
たのであろう。血なまぐさいあの時代よりも現代は
一見平和に見える。けれどもそれよりゆがんだ人間
の姿が私達の周りにあるのではなかろうか。・・・・巨
大なるナンセンスに向かって生きているのではなか
ろうか・・・・。音感教育というものを持って四十年近
く人生を歩んでこられた先生の・・・・・・・・それを通じ
て此の世の中を良くしたいという殉教的精神の他に
なにがあろう。崇高なるその精神に私達が触れる折、
私達はその精神をどうしても受けついで行かねばな
らないと思う。この役割この使命を与えられたこの
地位を他の世代と取りかえたくはない。その中にと
てつもない程大いなる歓びを秘めているこの役割を
己の両腕でしっかりと抱き、その歓びを自分のもの
にしたいからである。
私達の住みよい社会を、働きやすい職場を私達の
手で造ろうではないか。アパートも工場も私達の手
の中にしっかり握ろうではないか。新しい時代の新
しい村づくりのために合唱というたいまつをもって
前に進もうではないか。「みちのく村」を建設する
ために。やがて「みちのく村」が大きくなり、そし
て全世界の人々ひとりひとりに佐々木先生の音楽が
浸透し、ささやかなる心の平和が各人の心に充ちた
時には必ず、世界の恒久的平和が約束されることを
確信するものである。世界の平和のために私達は力
を尽くそうではないか。そして、こうした努力に向
ける私達の勢力、信念、献身でもって本当に世界を
照らすことの出来る灯を○○の手でともそうではな
いか。
『これら全ての事は最初の百日間でなしとげられ
るのものはない。また最初の千日間、さらにはこの
地球上における我々の生涯の間にも恐らくなしとげ
られないであろう。だが始めようではないか。』始
めないことには事は絶対に前へ進まない。だから私
達は始めなければならない。・・・・いやすでに始まっ
ている。佐々木先生自ら三十数年前に事を起こして
いるからである。しからば私達はそれを続ける事を
始めようではないか。
『我々の方針が究極的に成功するか失敗するかは、
私の肩以上に市民諸君の肩にかかっているのであ
る。』 私達の若い双肩には、無限の可能性がひめ
られてある。私達自らの手でこの計画を推し進めて
いこうではないか。
『安らかな良心を我々の唯一の報酬とし、歴史を
もって我々の行いの究極の審判となし、神の恵みと
助けを求めるが、この地上では神のみわざが真に我
々自身の所業でなければならないということをわき
まえつつ、わが愛すべき国土を導いて封建しようで
はないか。』 眼の前に広がっているこの果てしな
き道を、わが愛すべき“みちのく”を導いて前進し
ようではないか。私達の目的に一歩一歩近づくため
に。
* * *
『若し分裂するならば、我々は○○んど何事もな
し得ない。しかし、我々が結束する時、多くの共同
事業に於いてなし得ない事はほとんどない。』
「みちのく」第3号より