タグ別アーカイブ: ハーモニー

「今様」

通勤途上の車の中で久しぶりに今様(混声合唱)をききました。私たちが分離唱の合唱で唱った録音です。弦を張ったような緊張感のあるユニゾンではじまり、そこからハーモニーに音が広がっていくこの曲は独特のおもむきがあります。平城の盆地に立ち、周囲を見渡すとゆったりとした奈良の山々が春霞の中に見わたせる、花の季節には山肌に桜が咲き誇る、そんな万葉でもうたわれている古代の大和の風景が思い浮かびます。

今となっては時すでに遅いのでしょうが、君が代論議がありました。「君が代が国歌としてふさわしいかどうか」、というものです。君が代で歌われている世界が国歌としてはどうかと疑問があるところですが、ではどうするか。「新しい国歌をつくる」とか、「『さくらさくら』を国歌にする」というい主張もありましたね。そんなことを聞きながらかつて私が思ったのは、「『今様』こそ国歌にどうだろうか」ということでした。曲の優雅さ、日本古謡独特の旋律、古代日本を代表する大和の風景、こんな日本的な要素にあふれた「『今様』こそ国歌にふさわしい」と思ったものです。

    はるのやよいの あけぼのに
よものやまべを みわたせば
はなざかりかも しらくもの
かからぬみねこそ なかりけれ

 ア・カペラのハーモニーの中で唱うこの曲、印象深いですね。

パートを変えて唱う

前回のエントリーにパートを交代しながら唱ったことを書きました。こう書くと、いかにもしっかり音取りが出来る人のように思われそうなので、少し細しく書きます。

 

世の中には、楽譜を見れば音が、音楽がイメージできる人がいるらしいですね。更に上を見れば、どうやら楽譜を見て響きがイメージできる人もいるようです。そういった才能は限りがないのでしょうね。しかし私たち凡人には遠く及ばないところです。ところで私はどうかというと、そう言った才能にはからきし恵まれていないようです。そうなのですが、長く歌い続けた讃美歌などはハーモニーの中では何となく唱えてしまうのです。前述した才能の持ち主と違うところは、自分一人では全く唱えないこと。ハーモニーの中にあってこそ、唱ったことのないパートも唱えてしまうのです。それはたぶん、私たちが経験した合唱が聴き合って唱う方法であったことと深く関係しているようです。私も若干は経験したことがあるのですが、普通合唱というと自分のパートを一生懸命覚えて、それを他のパートに影響されることなく、(出来るだけ他のパートを聴かないようにして)しっかり唱うことが基本でした。しかし私たちが経験したのは最初からハーモニーの中で唱うこと、ですから知らず知らずのうちに他のパートも聞いているのでしょうね。大人数の合唱の中では、唱ったことのないパートも、一緒に唱う人の声を聞けばわかります。しかし各パート一人という合唱で初めてのパートならそうはいきません。しかし、聞きながら唱っていると初めてのパートでも収まるべき音がわかり自然にそこに収まってしまうような感覚でしょうかね。

 

前々回、前回の「森の音楽会」で一緒になったTさんはその辺りのことを、「我々の合唱をしていると、基本的にはどのパートも唱えるんだよね。声が出るぶんには・・・・。」なんて言い方をしていました。Fさんとの合唱のことを書きながら、こんなことばがよみがえってきました。

(13.0k CT)

すべては光る

光る
光る
すべては
光る
光らないものは
ひとつとしてない
みずから
光らないものは
他から
光を受けて
光る

 

この詩も、坂村真民さんの「念ずれば花ひらく」の中にのっている。詩の後に、「この詩の生命は、みずから光らないものは他から光を受けて光るというところにある」と書かれている。

私もまた、この部分が好きだ。こんな詩から私は、素人の私達が触れた音楽の世界を想う。ただ聴き合って生まれるハーモニーを感じ、またそこから音楽を感じる。そんな心のありようがなんともいえずいい。音楽で自ら光り輝ける人は世の中でもごくわずか。しかし、こんなふうに聴き合って唱うと特別な才能のない人も音楽に触れられる。そんなこともあってか、

みずから
光らないものは
他から
光を受けて
光る

という部分がいいと思う。

南高OB その4

南高OBのCDがOBの手により製作された。1955年から90年代までの長い年月で蓄えられた録音を5枚組にまとめたものだ。私はこれをOBの紹介で入手した。CD作成に寄せた文章から、作成されたのは1997年か98年頃である。このCDの表装にはOBのメンバー、佐々木先生、森山先生の似顔絵が描かれている。そしてサブタイトルには、「~究極のハーモニーを求めて45年~」とある。分離唱をもとにどこよりも素晴らしいハーモニーを実現したという自信のことばであろう。私がテープで聞いた演奏がたくさん入っており、さらに先生の指導から離れられてからの演奏もたくさんはいっている。指揮者は佐々木先生の他、高校での育ての親の森山先生、南高OBの一人でありこの合唱団を長年指導をされ佐々木先生と深いつながりのあった田島さん、それから増田邦明(順平)さんなどである。プライベートの限定プレスであり売り切れとなったが、その後再プレスしたと聞いている。関心のある方は問い合わせてみてはどうだろうか。ただし、この演奏を聴くためにはモノラル録音をものともせず聴くことができることが必要だ。

南高OBCD

私の場合は、そうなるのにかなりの時間がかかっている。  CDのジャケット。タイトルは

「山南OB Best Colection 126」
~究極のハーモニーを求めて45年~

似顔絵の中央にいるのが佐々木先生、その左にいるのが森山先生と聞いている。

南高OB その3

不況の中で何とか職に就いた私は真っ先にオープンリールデッキを買った。そして始めたことは南高OBの録音のコピーである。私の友人Kさんは、先生の口から漏れ聞かれるアーチストや演奏に対し「聴いてみたい」という好奇心が旺盛で、数々の演奏を見つけだしては私にも提供してくれた。先生が「南高OB」といえばやはり「聴いてみたい」の一心で、先生のところにあるだけの録音を借りてきてくれた。そしてこれを2人分コピーしたのは私の仕事だった。何本かのテープのケースには先生の手で「要保存」とか「要永久保存」とか朱で書かれていた。1955年~72年の録音、72年以外は全てモノラル録音である。私はこの頃になってやっと南高OBの良さを実感できるようになった。特に1955年の第1回東京公演、61年の第3回東京公演、62年の山形での演奏会などは録音の古さを補ってあまりある素晴らしい演奏である。55年の演奏、これはハーモニーが素晴らしい。だからこんなにゆったりとした演奏ができるのかと思う。61年になると趣が変わってくる。ハーモニーから生まれたほとばしるような音楽性という気がする。この頃の南高OBの黒人霊歌は絶品だ。私はSPレコードのコピーやこの南高OBを繰り返して聞いてデッキのヘッドがすり減ってなくなってしまい、一度はヘッドの交換をしなければならなくなったほどだ。