「きっぽし」考(その2)

 子どもの頃、きっぽしはサツマイモを蒸かして薄く切り、養蚕用のかごの上に並べて干していました。冬の寒い中長い間干しておくと、やがてこの芋が美味しそうにこうがふいて白くなっていきます。しかしそういう風に仕上がるまで子どもは待てないのです。毎日一つ食べては、空いた場所がわからないように残った芋を均等に並べ替えます。こうすると1日やそこいらでは減っていることはほとんどわからないのですが、毎日これをやっていると明らかに減っているのがわかります。白く美味しくなった頃にはすっかり量が減っていて、やがてそのきっぽしは食べ尽くされなくなってしまいます。
 こういう経験の中で思い返すと、私たちの意識の中にきっぽしの消費期限なんて考えられませんでした。事情が許すだけの量をつくり、それを食べてしまえば終わり。食べ残してしまうなんて考えられないことなのです。しかも、もし古くなってしまったらその品質は自分の目で見て、自分で触って、またにおいを嗅いで食べられるかどうか判断したことでしょう。消費期限なんていうように他人の判断に頼らなくても自分で判断できる、そんなものだったんですね。大量に作って販売する、そのためには包装もする。そうすると直接触ったりにおいを嗅いだりできません。だから他人の判断基準が必要になるのでしょうかね。だからといって必要以上に消費期限を短くする要求が出てくるのは、どう見てもおかしいですね。
 これも食品をつくる者と食べる者が離れてしまったことが原因なのかもしれませんね。

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