私たちの合唱団のメンバーの中には、県内の合唱界で有力な高校から入団してきた人もいる。もちろん高校時代も一生懸命活動してきた人達だ。この人達も佐々木先生の音楽に魅せられていった。後から聞いた話しだが、この人達は母校に行っては肩身が狭かったらしい。母校の(有力な)音楽の先生にとって、私たちの合唱は大変不満だったそうだ。いわゆる合唱界の実力を求めていくような価値観で眺めると、私たちの合唱には何の価値も感じなかったようだ。母校に行くと、「あんた達、何やってるの」と厳しい声を投げかけられたという。
ハーモニーというのはどうもなかなか理解されないらしい。音感合唱の世界に入ってしまうと、ハーモニーのない合唱など思いもよらないものになってしまうのだが、多くの人はただ音が重なっていればハーモニーと感じてしまうようだ。そしてきれいなハーモニーを聴いていただいても、その感慨はあまりないようだ。今まで「美しいハーモニー」と思う録音は多くの人に聴いてもらってきた。しかし、私たちがいいとおもってきたハーモニーをなかなか理解してもらえない。
佐々木先生の音楽の世界もまた多くの音楽界の人に理解されていない。それがこの文章の始めに書いたようなことになって現れてくる。もう何度も書いてきたが、先生の指導・指揮のもとで唱っているとそれこそ私たちの感性に響いてくるものがある。そういう私にとって音楽の本質と思えることが、なかなか理解してもらえない。
僕は高校生の頃ぐらいまでずっと、「(クラシック)音
楽の世界に生きる人たちはきっと皆、良い人たちばかり
に違いない」と思い込んでいました。なぜなら音楽とは
美しいもので、その音楽を愛する人の心も美しくて然る
べきだと考えていたからです。
でも実際は、派閥があったり、高慢でひとを見下すよう
な人もいたりで不思議に思ったものです。
佐々木先生の音楽の心が理解されなかったのは、音楽界
の人たちの嫉妬心や、プライドの高さが原因の一つだっ
たのではないでしょうか。特に、一門を率いるような方
にとって佐々木先生の言葉は耳に痛く、自分の威厳を
脅かしかねないと警戒されたのでは、と思います。
先生の指導を受けても、その心まで理解された方は本当
に少ないようで、とても残念です。
耳をひらくと
今まで何度も聞いていた音楽でもそれまでとは違って聞こえてきます。
つまり、分離唱によって作られたすばらしい合唱を耳をひらいていない人が聞いても、その素晴らしさを感じることができないのです。ファーストフードの濃い味に慣らされた舌では、新鮮な生野菜の美味しさがわからないのと同じように。
違うかなあ。