第5回さらりと音楽談義

行ってきました、今回のテーマは「音楽」。

参加者の一人の提案で、フランスでのテロの犠牲者への黙祷ではじまりました。テロについても話題となりました。力で解決はしない、テロの発端は貧困、だから貧困をなくすことこそ大切だと。

音楽とは、元来科学も天文学も含んでいた、森羅万象あらゆることが音楽であったとのこと。音楽とか天文学とか、なにかと分けたがる傾向があるがそれは好ましくないというようのおはなしがありました。アメリカは最初から違う民族・人たちが集まっているが「分けたがらない

」。しかし日本人ははじめから単一民族、みんな一緒なのに「分けたがる」のだそうです。音楽からはじまって、音楽を超えた広い範囲のはなしに広がってしまいました。

「みんなどんな音楽を好んでいるのか」という一人の問いかから、
「私たちは日本の音楽、芸能を理解していないことに気づく」

との話があり、そこから日本の伝統文化・伝統音楽の話に。

「明治期、西洋音楽が入ってきて日本人は劣等感を持ってしまった。」
「日本は西洋音楽を取り入れようとした。」
「日本の音楽、邦楽などは西洋音楽からみると独特のもの、西洋音楽の合理性にはまらないものがある。」
「わらべうたなどもなくなってしまうのではないか。」
「それは教育方法にも責任がある、日本の名曲『荒城の月』も教科書からなくなってしまった。」
「しかし本物は残さなければいけないし、残っている。快いもの・美しい状態を人間は共通して持っている。だから本物がなくなることはない。音楽が変わってきていると言っても表層が新しいものに変わっているだけだ。」

等々。

今回は「音楽」という大きなテーマでしたが、ここに集まってくるのはそれぞれが音楽好き、音楽を話し出したら止まりません。先生だけでなく次々と参加者が発言して今回の会は展開しました。このような会になっていくのも、私たち素人のはなしを受け止めてくれる藤原先生の人柄が大きいように感じました。話していてあっという間に終了予定の時間を過ぎてしまい、先生が

「じゃ、今日はここまで」

となったのですが、そこは先生の音楽を楽しみに来ている人たち。

「そんな~!」
「一曲お願いします。」

と。そこで先生も、

「じゃ、即興。」

と、ヴィオラ・ダ・モーレを演奏してくれました。話題の端にのぼったシェーンベルの12音階を意識されたものだったのでしょうか。落ち着いた調正というのとはちょっと違った曲、弓は通常、駒のネック側をこするものなのでしょうが、時には駒を乗り越えてあご当て側を動いたり、同時にピチカート風に指で弦をはじいたり、さらにはネックの裏側に出ている共鳴弦も指ではじいたりと

、まさに自由自在の演奏。曲が終わった後、

「こういう奏法があるんですか?」

との質問には

「あるんだよ」

と平然といいながら、「何でもあるんだよ」と。そんな即興演奏でこの日の会は終わりました。

5thさらりと1

いつも楽しみな今回の会場の装飾。円形に並べた長机の中央に長机を2脚、その上にこんなものが。黄色い色はイチョウお葉で周囲には松かさのようなものが配置、写真に映っている以上にきれいだったんですよ。

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