「解夏」の中では何度も墓参りの場面が登場します。こうした表現を読んでいると、この作者もまた年に何度となく墓参りをするという生活の中で育ち、長崎を出た後も規制すると墓参りをするというふうにしてきた人なのかなと思います。長崎という土地柄・風習もあるのかもしれません。
先日テレビに広い海の見える共同墓地が映っていました。盆に迎え火を焚きにお墓に行くのだそうです。そうして墓を守ってきた人々の暮らしの一方で、最近は訪れる人もなく荒れ果てた墓が増えてきているのだそうです。
そういえば私たちも春秋の彼岸と夏の盆前には墓の掃除をし、墓参りを繰り返してきました。時には隣の墓まで除草をし、また時には近所の方が我が家の墓まで除草してくれます。花を生け線香をあげ、手を合わせることもまた近所同士お互い様で続いています。長年訪れる人のない墓まできれいに除草してあげる人もいます。そんな風にして守ってきた田舎の生活・思いやり、いいなと思います。しかし、これから先は助け合っていくのには人が足りなくなっていくのかもしれません。
「墓守」自分の身に照らして深刻な問題だなと思い、読ませてもらいました。私の親の世代には、親戚すべてではないにしても、正月など年に一度は集まっていたことを思い出しますが、故郷から遠く離れた地域に居を構えることが珍しくない昨今では先祖のお墓参りも容易ではなく、そこでの人の交わりも難しくなってきます。昨日、仕事中に上司から突然「お墓はどうしてるの?」と声をかけられました。その上司は新潟出身で8人兄弟の末っ子です。その人は5年前に近隣の見晴らしの良い墓地にお墓を買ったらしいのですが「買って失敗したよ。
無縁仏になるだろうなあ」近くに親戚がおられないので、心配されるのもよくわかります。「某家代々の墓」というのが地方ではよく見かけますが、こうした代々のつながりが保たれているのを見ると羨ましくも思えます。