日別アーカイブ: 2007年9月16日

特集 “野の花”のごとく (その5)

   増田青年の情熱(続)
 さて、話を山形にもどそう。
 当時の増田青年は、南高二年のとき、事情で一時群馬に転校しなければならなかった。送別のとき、コーラス部全員が駅まで送ってくれたものだ。そのとき駅頭での、いつとはなしにはじまったハーモニーの美しいひびきは、いまでも忘れることができない。
 転校さきの群馬では、コーラス部はあるにはあったが、彼をみたすようなものではなかった。教師は、そのうち増田青年に指揮をまかせっきりといった、悠長さかげんだった。近くの女子高校とも、合同で混声をやったが、彼は、このグループにたいして、山形で体験した森山先生の指導を用いた。
 これは、美しいハーモニーを作るには、もっとも理解しやすい、そして効果的な方法でもある″分離唱″というものなのだ。これを説明するには、音感教育で著名な佐々木基之氏のことを話さなけれはならない。また、この方法が、みちのくの一隅で実を結んだいきさつは、山形南高の森山三郎氏と佐々木氏との出合いの場からも話さなければならない。このことは、あとで述べよう。
 増田青年の、このときの分離唱の効果と体験は、あとになって、東混を生むきっかけとなったものでもあった。
 増田さんが芸大への進学を決心したのは、そのころのことだ。一生を音楽にゆだねようと決意したとき、彼は、じつとしていられなくなった。そのとき、彼の心に呼びかける声があった。彼には南高の音楽的な環境が、たまらなく恋しくなってきたのだ。彼は単身、ふたたび山形に舞いもどってきた。彼をそうさせたものに、南高の合唱と、森山先生の指導力と人柄とがあった。彼の高三のときだ。水を得た魚のように、彼の進学準備がはじまった。
 そして秋も暮れに近く、彼は上京して渡辺高之助氏に師事し、やがて翌年には芸大に入学したのだ。それから数年。芸大卒業も間近かくなったころ、このOB合唱団は、第一回の東京での演奏会をもったのだ。